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死生観の自由

荻野誠人

 死後のことは誰にも分からない。死んで戻ってきた人はいないからだ。
 こう書くと、臨死体験があるではないかという声が上がるかもしれない。しかし、それは本当に死んだ人の経験ではない。生き返ったのだから、実は死んではいなかったのだ。肉体が完全に消滅してから、この世に公然と現れて、多くの人々に死後のことを語った人は一人もいない。当たり前だが。
 霊現象というものもあるにはある。そこから人は死後も霊となって存在し続けると考えることも出来よう。だが、霊と話すようなことは、ごく一部の人しか体験できず、皆に納得のいく形で霊の実在を証明できるわけでもない。
 要するに、死後のことは死んでみなければ分からないのである。
 だから、死後について述べていることは、輪廻転生も天国地獄も復活も、すべて本当のことかどうか分からない。また、死後の世界などない、霊など存在しないという説も、一見科学的だが、これも確実なものではない。科学が万全でないことは言うまでもなく、例えば宇宙や地底や海底などの調査結果がそれまでの科学の定説をひっくり返してしまうことなどは日常茶飯事である。
 だから、人は死後について様々な意見をもっているけれども、自分が正しいと断言することも、他人が間違いだと断言することも出来ないのである。
 私自身は、死んだらそれっきり、死後の世界はないという前提で生きている。しかし、それも絶対正しいなどとは思っていない。霊現象などからひょっとすると死後の世界はあるのかもしれないという思いは消えない。私自身にもそういう体験がないわけではない。ただ、それは自分の理性でとらえきれない曖昧なものなので、そういうものをあてにせずに生きているのである。
 死後についてのある考え方が周囲に迷惑をかけたり、たちの悪い宗教につけ込まれて、莫大な金銭を奪われたりといった場合は、見て見ぬふりをするわけにはいかない。しかし、それが純粋にその人の心の中にとどまっている限り、どんな考え方だろうと、受け入れるつもりである。
 一番大事なのはその人が安心立命の境地にいるかどうかではないか。例えば、輪廻転生の考え方で本人が満足しているのなら、他人がとやかく言うことはないだろう。波風が立つだけである。
 ひょっとすると遠い将来、科学がさらに発達して、すべての人が死者と自由に交流できるようになるかもしれない。その日までは、死後に関するすべての説が「仮説」である。それなら仮説同士、お互いを尊重して仲良くやっていくのが一番いいことではないだろうか。

2006・2・19


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