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失敗の勧め

荻野誠人

 ある小学校の6年生の教室。国語の教師が順番に児童を指して答えさせている。静かな教室の隅の方で女の子が二人ヒソヒソやっている。その声が段々大きくなる。教師が聞きとがめて、何をやっているのか尋ねると、自分の当てられる問題を席順から予想して、お互いに答えを確認しているのだと言う。間違えるとみっともないからとのこと。教師は少し困ったような顔をしたが、静かにしろと言っただけで、授業を続けた。おそらくどの学校でも見られる光景だろう。
 女の子たちの私語が周囲に迷惑なのは言うまでもない。だが、この行いは、当人たちにとってもかなりの損なのである。
 第一に、人から教えてもらったりしたことは余り覚えない。友人の助けでその場を切り抜けたとしても実力は身につかない。それよりは、間違えて悔しい思い、恥ずかしい思いをした方が記憶に残るのである。
 第二に、もっと大切なことだが、女の子たちは心を鍛えるせっかくの機会を捨てているのだ。間違えて少しいやな思いをした方が心は強くなるのである。間違いを重ねていくうちに、慣れてきていやな思いに堪えられるようになってくる。気にならなくなって、失敗を恐れなくなる。個人差はあるだろうが、体力と同じで、鍛えれば以前の自分より強くなることは間違いない。強い心は学力に勝る財産である。面白いことに、いつも正解を出す優等生は、褒められていい気分になれる代わりに心を鍛える機会には恵まれないわけである。
 ただし、体力を向上させるためにはあくまで適度な運動が必要なのと同様、いやな思いもあくまで「適度」でなければならない。間違った途端に、教師があざ笑ったり、どなりつけたり、教室中が爆笑したりするならば、その生徒は深く傷ついてしまう。ますます引っ込み思案となって、逆効果である。そんな雰囲気の教室なら、ヒソヒソやるのも自己防衛のための正当な行為というものだ。間違えてもさほど傷つかず、次も答えようという気持ちにさせるためには、間違った時に注意や叱責だけでなく、励ましや答えを出したことに対する褒め言葉が必要なこともある。そして普段から教師が自分たちのことを思ってくれているという信頼があることも大事である。
 このような心を鍛えるささやかな機会は学校の中だけでもけっこう作れるだろう。例えば、自発的にごみを拾う、人前で話す、余り親しくない人にも挨拶する、先生に個人的に質問する、コンテストに応募するといったことだ。どれも少しばかり勇気の要る行為だが、とにかく失敗やいやな思いを恐れずに一歩だけ前に踏み出しさえすればいいのである。一つの課題に慣れたら、次の課題へ進めばいいだろう。そういったことを辛抱強く続けていくうちに心は次第に強くなり、ストレスに負けなくなっていく。もっとも、生徒会会長に立候補するなどといった大それたことをすべての生徒に勧めているわけではないので、念のため。一人一人することが違っていて当然だ。
 一方、親や教師は子供を保護しつつも、失敗するかもしれないこともあえてさせた方がいいということになろう。子供を常に安全地帯に閉じ込めたり、先回りして失敗の恐れをすべて取り除いたりすれば、子供は全然鍛えられず、強くなれない。そして青白い心のままで厳しい社会に出て行くことになってしまう。これでは大人としての責任を果たしたことにならない。子供の時の失敗は成功と同じくらい、ひょっとすると成功以上に価値があるのだ。
 強い心は社会人になった時、かけがえのない財産となる。一旦社会へ出れば、もう誰も守ってはくれない。周囲から容赦のない攻撃を受けることもあれば、大失敗の責任を一人でとらされることもある。そんな時かろうじて自分を支えてくれるのは、何よりも自分の強い心である。学力や金銭や地位ではない。大人になって様々な苦難を乗り越えていくために子供時代から心を鍛える機会を積極的に生かしていってほしい。

               2007・1・30


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