戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

新鮮な目

荻野誠人

「狼少年」というたいへん有名な寓話がある。いたずら小僧が「狼が来た」とうそをついて、村人を振り回しているうちに全然信用されなくなり、本当に狼が出て、助けを求めたときには、誰にも相手にされず、食い殺されてしまう。----だから、うそをつくのはやめましょう、というのがこのお話の教訓である。

それはそれでいいのだが、作者の意図から離れて、目を村人の方に向けると、別の教訓が学べるのではないだろうか。

たとえば、私がある人に初めて会い、その行動を見て、悪だと判断する。その後何度もその人の行動を見て、悪だと判断しているうちに、私は次第にろくに考えもせずに、その行動を悪だと思うようになる。ついには私の頭は全然働かなくなって、その人の行動をすべて悪だと決めつけるようになり、善の可能性など考えてみようともしなくなる。この時、私は「狼少年」の村人になったのである。

受け身の姿勢で同じようなことばかり経験していると、感受性が鈍り、判断力が働かなくなって「今度もどうせ同じことだろう」と惰性で決めつけるようになる。確かに毎度毎度判断するのは面倒だ。判断しても、結果がいつも同じならなおさら面倒である。しかし、惰性で決めていては、いつか起こるかもしれない微妙な変化をとらえることはできないし、そのうちに感受性も判断力もさびついてくる。下手をすると「狼が出る」ような大きな変化に直面してもそれに気づかないことにもなりかねない。

それでも、単に惰性で決めつけているだけなら、まだいい。ここに感情がからむと、ますますものごとを正しくとらえられなくなってしまう。村人は何度もだまされているうちに、いたずら小僧に対して穏やかでない感情を抱くようになっていたのだろう。だから少年が必死に叫んだときにも、おそらく「意地でも出ていくものか」とかたくなな態度をとったのだろう。同じことは私たちの日常生活でもしょっちゅう起こっている。たとえば、憎たらしい人物が立派なことをしたと聞いて、「あいつがそんないいことをするはずは絶対にない」とヒステリックに反応するのである。その決めつけは、当たっているかもしれないが、少年を見殺しにしてしまったような結果をいつ招くか分からない危険なものである。

今述べたことは、良い感情を抱いている場合にもあてはまる。相手がいつも立派な行いや優れた仕事をしていれば、こちらは今度もそうするだろうと思う。つまり信頼しているわけである。だが、信頼すればするほど、相手の行動をろくに吟味せずに、「今度もいいに決まっている」と思い込む傾向があるのではないか。ちょうど、それまで優れた作品を書き続けてきた小説家の最新作を、じっくりと読みもしないでほめちぎるのと同じである。この態度ではやはり相手を本当に理解したり、評価したりすることはできないし、相手に対して失礼でもある。もちろん信頼自体が悪いわけではない。ただ、信頼しても、相手を積極的に判断していこうという態度まで失うのはどうかと思うのである。

こういった失敗を避けるためには、つねに相手の言動の一つ一つを、初めてその人に会ったときのような新鮮な曇りのない目で判断するしかないと思う。初対面のとき同様、惰性も好意も悪意もない虚心の状態で、である。「初心忘るべからず」とは、含蓄の深い貴重な格言だが、ここではつねに新鮮なものの見方をするべきだという教訓を引き出しておきたい。

狼少年の不運は、村人が新鮮な目をもっていなかったことだった。

(1990・1・1、1990・8・24 改稿)


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp