目次ホームページヘ  作者別作者別


死後、どうなるか、ということについて

荻野誠人

 題名に興味をもって読み始めようとする方に前もってお断りしておきたいが、以下の文章は、何の役にも立たないかもしれない。それどころか、生きる張り合いを失わせる恐れさえある。だから、それを承知の上で読み進めていただければ、と思う。
 人は死後どうなるのか。
 大昔から多くの人がこの謎を追究してきた。私もそのまねをしてみよう。
 結論から言うと、死後は、深く眠っているときと同じ状態になる。そして、それが永遠に続く。実はこれだけである。何か独創的な見解を期待した人には申し訳ないが、多くの先人と同じ結論に至ったというわけだ。
  眠るのはふつう夜で、眠るためには目をつむるところから、死後は真っ暗な世界にいるのかと受け取る向きもあるかもしれないが、そうではない。暗いというのは、一つの判断で、脳が働いている状態である。死後は、眠っているとき同様、周囲が暗いかどうか、分からなくなってしまうのだ。
  死後は「無」だというのも、死んだ人にとっては少し違うと思う。これも私たちの知性が生み出した言葉であり、生きているからこそ、使える言葉である。死んでいる状態では、それが「無」かどうかも分からなくなってしまう。
  そういう状態だから、死後の世界や死後の存在というものもないことになる。当然、天国にも地獄にも行けない。あの世で親や恩師や先輩に会うこともない。この世に遊びに来て、子孫や世の中の移り変わりを見守ることもできない。実につまらない。私のように考えている人は、少数派であっても、けっこういるとは思うが、積極的に持論を展開する人はさほどいないようだ。なぜならそんな意見は人々の生きる張り合いを奪うかもしれないから。
 死後は誰もが同じ状態になる。生前どんな人間だったかということは影響しない。死は平等だと言われるが、死後の状態も平等なのである。ということは、善人も悪人も同じということだ。人を散々泣かして、自分だけ大いに楽しんで死んでも、裁きも報いもない。後世の人たちのあらゆる批判や軽蔑も当人には届かない。そんなのは理不尽だという人もいるだろうし、私も面白くない。だが、そういう結論になってしまうのだから、しかたがない。しかし、たとえ悪人に対してとはいえ、怒ったり、恨んだりする心とも死ねばお別れになるのだから、それはそれで一つの救いともいえるのではないだろうか。
 では、生きている間に好き放題した方がいいではないかという意見も出るかもしれない。私自身はそうは思わない。こういう死生観を得てからも、普段の言動に変化はない。確かに、善を行なえば天国へ行けるのなら、善行の一つの強い動機になるだろうが、それがすべてではない。善行はした方がいいと思うから、するのである。好き放題にする人もいる一方で、来世でのやり直しのきかない人生だから、と、より真剣に生きる人もいるだろう。それに、全員が好き放題しようと思えば、世の中はめちゃくちゃになり、今よりも不幸になる人が増えるのは間違いない。
 死後の状態については以上だが、自説が正しいと断言するつもりなどない。死後どうなるかということは誰にも証明できないし、そもそも本当のところは死んでみないと分からないのだから。ただ、死後の世界はない可能性が、ある可能性よりも高いのではないかと推測しているだけである。
  日本人は死後の世界の存在を信じる割合が世界の中では低いという統計もある。だが、そんな日本人でさえも、何となくでも、死後の世界はあると信じている人の方が多数派なのではないかと思う。では、なぜ人は死後の世界を信じるのだろうか。
 一番大きな理由は、死にたくないからであろう。そう思うのは、生き物の本能である。生き物はみな死を恐れる。だが死自体は否定することはできない。そこで死後の生存というものを考え出したのである。それは大いなる智恵だったのだ。死後の世界があると堅く信じれば、死もさほど怖くなくなるし、この世の生活にも張りが出るというものだ。
 この世が理不尽だということも死後の世界の存在を信じる理由になったと思う。この世で悪の限りを尽くして、栄光に包まれて死ぬ人がいる反面、良いことばかりしてきたのに、何一つ報われず泣きながら死んでいく人もいる。普通の人は、これはおかしい、このままであるはずがないと正義感から思う。その思いが、死後の世界である天国と地獄、および死後の裁きを考え出した一因となったのだろうと思う。
 一方、昔の政治家・宗教家・教育家といった支配層が、一般人に善行をさせるために天国や地獄を考えたこともあっただろう。悪いことをすれば地獄に落ちる。だから良いことをやりなさい。そうすれば天国に行ける、と。支配者の中には真に人々や世の中のためを思っていた人もいただろうし、自分の都合のいいように人々を操る目的を持っていた人もいただろう。
 昔の日本人は、善人は極楽に行けるというような信仰をもっていた。少なくとも、そういう人は今よりも多かっただろう。そういう種類の信仰は、本人にとっても周囲にとっても何ら悪いものではない。それどころか、信者を善人にするのなら、良い信仰である。そういう信仰を馬鹿にしたり、否定したりするのは野暮というものだ。本人は極楽行きを信じて、幸福なのだから、余計なお節介をすることはない。
 もう一つ、死後の世界を信じる理由としては、実際にそれが存在するからだ、という主張もあるのではないか。死んだ人を見た、会った、話したという話は、枚挙に暇がない。その多くは合理的な説明がつくものだろうが、例えば、生前の本人を知らない人が死後に出会ってみると、生前の本人と特徴が一致するというような、どうにも説明のしようがない体験談もある。体験談自体がうそだという可能性もあるが。
 とはいえ、死者と交流できるという人はごく一部だし、死者が白昼堂々と多くの人の前に現れたという客観的な事実は一件もないので、死後の世界の存在を証明するまでには至らないと私は考えている。なお、私には死者と交流できる能力はない。あれば死生観もずいぶん違ったと思うのだが。
 私のような考え方は進歩人・文化人の証と思っている人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。確かに、近代になるにつれて私のような考え方は増えたのだろう。しかし、新しいことが必ずしも優れているわけでも、幸福につながるわけでもない。死後の世界を否定し、自分がどうなるか定見もなく、不安なままで死んでいく人がいるとすれば、善人は天国へ行けると信じ込んで安心して死んでいく人の方が幸せだし、賢いとさえ思う。無宗教者の立場から言えば、失礼ながら、その教えは「うそ」かもしれないが、人々を幸福にする大いなる「うそ」と言えるだろう。仏教では「方便」ということになるのだろうか。
 私自身は以上のように自分の死生観を整理したことでひとまずすっきりした気分である。これは一種の死の準備と言えないこともないだろう。ただ実際に死を鼻先に突きつけられたときにどうなるのかは分からない。ひょっとすると、動転してこざかしい死生観など吹っ飛んでしまうのかもしれない。

2011・1・20

 


目次ホームページヘ  作者別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp