ある種の「正義漢」荻野誠人 かりに、人にどんどん病気になってほしい、病人がいなくなったら金もうけができなくて困る、と思っている医者がいたとしたら、それはとんでもない医者ということになるだろう。また、しょっちゅう戦争が起こってほしい、戦争がなくなったら自分が英雄になれなくて困る、と思っている軍人がいたとしたら、それもけしからん軍人ということになるだろう。 それと同様に、悪人を盛んにやっつけておきながら、実は悪人にもっとのさばってほしい、悪人がいなくなったら困るという「正義漢」たちがいるようだ。 その「正義漢」は、汚職政治家から浮気をする自分の家族まで、あらゆる種類の悪人を見つけてはとことん批判する。いかにも正義の味方である。その批判には一見文句のつけようがない。悪人にはやられるだけの立派な理由がある。 しかし実は、この「正義漢」は悪人を批判することに、ひそかに残酷な喜びを覚えているのである。彼らを批判に駆り立てているものは、決して正義などではない。 もう少し露骨に言えば、彼らの行為は、第一にいじめなのだ。悪人をいじめるのが彼らの「趣味」なのである。だから、彼らとしては、悪人がいなくなり、「趣味」を楽しめなくなっては困る。改心して善人になってもらっては困るのである。悪人はドラマの悪役のように徹底的に反抗して、最後には自分たちの手によって、できるだけみじめにつぶされなければならないのだ。その哀れなありさまを見て、彼らは密かに満足感にひたるのである。 そして第二に、「正義漢」たちの行為は、言わずと知れた自己宣伝である。彼らは悪人に対する批判を通して、いかに自分が立派な人間かを周囲に見せつけようとする。だから、悪人がいなくなれば、自己宣伝の場もなくなることになって、彼らは欲求不満に陥る。そこで何とかして批判の対象を見つけだそうとする「正義漢」も出てくるのである。こういう人たちの手にかかると、少々問題があるといった程度の人でも、札付きの悪党に仕立てあげられてしまう。 結果的には、たまたまこの「正義漢」たちがある程度よいことをしているのは否定できない。しかし、かえってそのために、この人たちの多くが、自分がそういう人種であることに気がつかなくなっている。彼らは無意識に善人の仮面をかぶり続ける。そして妙な使命感や選民意識に酔う。 悪人に対する望ましい態度は、正義に基づいて厳しい態度で臨むが、改心してほしいという温かい気持ちが心の奥底に宿っている、といったあたりであろうか。だから本物の正義漢は悪人が善人になることを望んでいるし、そのための努力も惜しまない。そして相手が心から反省の色を見せさえすれば、喜んでそれを受け入れるのである。 「正義漢」たちは、善人を苦しめている悪人を見つけると、待ってましたとばかりに飛びついて盛んに攻撃を繰り返す。彼らは、自分は目の前の悪人とは正反対の人間だと思って悦に入る。だが、実は彼らの本質は、その悪人と何ら変わらないのである。 (1991・11・23) |