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猿に学ぶ

向井俊博

 動物園に行くと、猿山にはいつも人だかりがしている。子猿が走り回る母親の胸にしがみついているかと思うと、陽だまりでは蚤とりに忙しい一群、かと思うとあちらでは喧嘩と見ていて飽きないが、なにか人間社会の縮図を見ているようで恥ずかしい気にもなってくる。

 猿山には、たいていボスがいる。長時間見ているとそれとなくわかる。腕力があり、権利主張を通す。ボスが衰えると、その座をめぐってし烈な闘争が起きるという。人間社会とまったく同じだ。

 野性の猿には、このてのボスはいないそうだ。だがリーダーはいる。能力ある猿がその座につき、外敵から群れを守り、全体の統制を行う。文字どおりのリーダーである。

 動物園のように、人工的な狭い環境に群れを置くと、敵はいないし餌の心配もないということになり、必然的にリーダーならぬボスが誕生してしまうらしい。この辺のところはこれまた人間社会に似ていて身につまされる。

 最近、「多元的ネットワーク」という言葉がもてはやされ、その必要性をよく耳にする。例えばサラリーマンだと会社の関係で人や社会とのつながりを持つ。ところが定年を迎えると、会社をバックにして出来ていたネットワークという足場が一挙に無くなり、趣味やボランティアでもやっていない限り、働き蜂、暁に死す、元気なのはかあちゃんだけというはめになる。個人にとって、一つではなく、多元的なネットワークを持つことが大切なゆえんである。

 「多元的ネットワーク」が社会でうまく機能している例として、インドネシアのバリ島が引き合いに出される。狭い地域内で、祭事とか農作業とかの色々な組織ネットワークが形成されていて、個人はさまざまなネットの一員となっている。あるネットワークの長であっても、別のネットでは一員でしかない。自分の能力、資質に応じてそれぞれに参加しているわけだ。

 したがって、このように「多元的ネットワーク」がうまく機能している社会では、権力の集中とか落ちこぼれとかいった社会現象すら起こりえないのだそうだ。逆に、動物園の猿山のように狭い空間に群れが押し込まれると、極端な単一ネットワークしか形成しえず、ボスに象徴されるごとく、権力の集中が起こるのであろう。

 こんな話も思い出した。学術的な記録なのか知る由もないが、猿が死んだ仲間を中心に円陣を組み、悲しげに長時間唸り声をあげてから立ち去ったという自然の中での観察録があるそうだ。動物園で、死んだ子猿をそうとは知らずに抱き回る母猿とはわけが違うようだ。死者を敬う心以前に、同類を殺すところまでに落ち込んでしまった人間様が哀しくなる。


 そんなこんなを動物園の猿山の前で連想し、人間の失いつつあるものに思いを馳せてしまった。これ、恥ずかしながら、まさにわが祖先、猿に学ぶの図である。

〔平成7年8月14日〕


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