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散る桜とテレビ

荻野誠人

 今年の桜は気が付いたらもう散り始めていたようだ。毎年私個人の開花の「指標」となってくれる道端の桜は、公式の開花宣言が出た時には、もう何本かの枝に若葉が顔をのぞかせていて、驚いてしまった。
 さて、3月も中旬頃になって開花が近づいてくると、テレビでは必ず各地の桜の名所を紹介する。つぼみやほころびかけた花が大写しになる。そして間もなく、にぎやかな、中には羽目を外した花見の様子が電波に乗るのである。おかげで実際に花見に行かなくても、多少はその雰囲気を味わい、ああ今年も春が来たな、と感じることができる。
 ところが、桜の中継は花見の盛り上がりの頂点でぱったり途絶える。その唐突さにあぜんとするほどである。中には木の下に放置されたゴミの山を映すニュースやワイドショーもあったが、散り行く桜をじっくりとらえた映像は私の知る限りではなかった。少なくとも開花前後と同じくらいの熱意でカメラに収めた番組はなかったのではないか。その時、テレビはすでに次の新鮮な話題を追っていたのである。
 私はその豹変ぶりにかなりの違和感を覚えた。
 その理由の一つは、芸能人やスポーツ選手が人気上昇中の時はちやほやし、落ち目になったら見向きもしなくなるマスコミの非情さを連想したことである。
 もう一つは、散っていく桜は報道に値しないのだろうかという疑問である。確かに、花が散り始め、若葉が出てきたおかげでまだら模様になった桜は満開の時ほど美しくはなかろう。しかし、花の舞い散る様は極めて美しい。それに、花を惜しむ気持ちをかきたて、命のはかなさをも感じさせてくれる。それが自分も含めた生き物の命のはかなさ、有限性の自覚につながり、命や弱いものに対する優しさを養ってはいかないだろうか。これは電波に乗せる価値がないのだろうか。
 散る桜に注目する人は昔からいた。
   散る桜残る桜も散る桜 伝良寛
   散る桜海青ければ海に散る 高屋窓秋
   久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
   春風の花を散らすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり 西行
   花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、
   この枝かの枝散りにけり、今は見どころなし、などはいふめる。兼好法師
 そして、軍歌『同期の桜』も有名である。
 どのくらい多くの日本人が滅びゆくものをいとおしむ価値観を共有してきたのかは私には分からないのだが、「滅びの美学」などと称して、日本の伝統ととらえている人もいるようである。おそらく小さな流れではないのだろう。既に書いたように、この価値観は決して悪いものではない。テレビの報道ぶりはそれを無視するようなものである。
 だが、私はおそらくテレビに過大な要求をしているのだろう。そもそもテレビに花の散るまでを報道する義務や伝統を守る義務などはないのだから。ただ、テレビにばかり頼っていると、気付かぬうちに感じ方さえもテレビの鋳型にはめられてしまうように思える。つまり、本物の桜を見ても、花が満開の時までしか興味をもてなくなってしまうのだ。それはその人にとって相当な損失ではないだろうか。そうならないように、テレビの報道は政治などだけでなく、季節の風物詩を取り上げた時でさえも偏りがあることを意識しておいた方がいいし、普段から自分の五官で直接自然に接することも必要であろう。要するに視聴者の方がテレビに引きずられないようにすればいい。
 幸いにこの春もネット上で散る桜を惜しむ新作の俳句を数多く見ることができた。花吹雪の写真にも出会えた。それが以前より減っているのかどうか、というところまでは分からないが、少なくとも昔ながらの感性をもっている人が大勢いることは確かだ。

2007・6・6


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