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酒場のポルカ

向井俊博

 東京霞ヶ関ビルの近くに、「ベルマンズポルカ」というドイツ酒場がある。落ちついた雰囲気は語らいに格別であるが、片隅に小さなステージがあるのが嬉しい。専属の歌手に達者なピアノとアコーデオンがついてヨーロッパ民謡をにぎやかに聴かせてくれるが、興に乗って歌う客には伴奏をつけてくれる。

 友人達とここでジョッキを傾けていたときのことである。突然、痩せてひょろりとして、口に美髭(びし)と微笑をたたえた初老の紳士が、クラリネットを手にステージに立たれた。そして、客に「タンタンタタタン」と手拍子の練習をリードしたと思ったら、「クラリネットポルカ」を吹き始めた。軽快なクラリネットは、客席の手拍子と一体となって、ぐんぐんと心が一つになっていく感じで大いに盛り上がり、終わったときにはやんやの喝采である。奏者と客席の隔てのとれた心地よいひとときであった。半拍打ちの入る難しい手拍子であったが、曲が進むにつれ我々の息も合ってきて、高度なピアノ伴奏でもつけている気分になってしまうのがなんとも不思議だった。

 以前この酒場に来たときに、今日は御皇室紀子さまのツィターの先生がお見えになっていますと店の人が紹介していたのを思いだし、今宵クラリネットを吹かれた方もきっと有名な人なのだろうと思ったが、なにせこの道に疎いので皆目見当もつかない。ともあれ、人間的にもとても魅力のある方だなとの強い印象を残した。

 それから数カ月経ったある日、立花隆の「証言・臨死体験」(文芸春秋)という新刊本を手にしてびっくりした。くだんのクラリネット奏者は、元クレージーキャッツの安田伸氏であったのだ。本には、水上勉や羽仁進なその著名人にまじって、氏の臨死体験がリアルに語られているのだが、そこに語り手のカラー写真が載っていて、あっ、この人だったのだと分かった次第である。氏は東京芸大に学ばれたれっきとした音楽家というのも始めて知ったのだが、それよりも氏の体験談がなんともすさまじい。

 八週間に及ぶ過酷な肝臓ガンの治療後に大吐血をされ、二週間以上の危篤状態のなかで、氏は死後の世界に通ずるいわゆる「臨死体験」をされている。本にはその時の情景を描かれたスケッチが載っているが、古代エジプト風の宮殿で、上も下も遠くも一面の黄金の光に包まれている中を、氏は舞台の花道を行くようにさっそうと歩いて行かれたそうだ。

 その時の気分はというと、実に晴れやかで、モーツアルトのクラリネット協奏曲第四楽章のテンポと気分で、まるで空中を行く感じだったそうだ。この体験は夢とは確然とした違いがあり、リアルで、あんないい気持ちでいられるなら死ぬのも悪くないと感じ、死を恐れない気持ちが一層深まったとある。

 臨死体験ではないが、少しだけ似た経験を持っているので、氏の体験にはことのほか共感をそそられる。私の場合は、病気の苦痛でぼーっと気が遠退いた途端に、身体が消滅した感じになる一方で意識だけがやけに明せきになった中で、平安で例えようもなく暖かい光の世界を見たというにすぎない。苦しかったが死線をさまよったわけではないので世にいう臨死体験ではないし、こんなのを何というのか知らないが、私の場合も安田氏と同じように、この経験以来、苦痛とか死の恐怖とかが薄らいだのは事実である。

 さて、安田氏についてであるが、先日新聞を見ていてまたまたびっくりしてしまった。四月に阪神大震災と国内外の難病の子供達を救う産経新聞の「明美ちゃん基金」のチャリティコンサートが開かれるが、その一部に昨年の出演者安田伸さんの追悼イベントが組まれると報じられているのだ。うかつにも私は氏が去年の十一月に亡くなっておられたのをこのとき始めて知った次第である。

 酒場での出会い、本を通じての出会いに格別身近になった方だけに、今、心の片隅に穴があいた思いでいる。

 そう、あの酒場に安田さんのクラリネットはもう響かないのだ。

(1997年4月18日)


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