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理想と現実

荻野誠人

ドラマ「武田信玄」では信玄と上杉謙信は対照的な人物として登場する。信玄は決して悪人ではないが、買収もすれば裏切りもする現実家である。多くの人を引きつける魅力の持ち主でもあるが、人の欲望や弱点を知り抜いて人を操る策士でもある。一方謙信は私利私欲なく、ひたすら天皇や将軍を中心とした旧時代の秩序を取り戻そうとする理想家である。理想のためには一文の得にもならない戦さにも喜んで出陣する。徳を重んじ、買収や裏切りなどは頭から軽蔑している。名ばかりの官位にこだわるところもいかにも謙信らしい。

私は謙信の方が好きだが、かりにこの両雄が何十年と戦い続ければ、結局は信玄が勝つと思っている。信玄の方がより多くの者の心をつかむ度量を備え、勝つためには手段を選ばぬ図太さをもっているからである。それに対し謙信は勝つことよりも、自分の信念に従って生きることの方を重視しているようだ。

謙信は高い人格の持ち主だったのだろう。だが、戦国武将としての謙信の弱点は、その人格の高みからおりてこないところにあったようだ。家臣が謙信と同様人格者ぞろいであれば何の問題もないのだが、実際はものや金で動く俗人が大半である。しかも家臣抜きではさすがの謙信も何もできない。それが現実なのだから、理想を実現するためには、謙信はまず家臣のレベルにまでおりてこなければならない。そして家臣の欲望を満たして十分心をつかんでこそ、初めて自分の理想のために働かせることができるのである。

もちろんそういうやり方をすれば、ずいぶんと余分な時間がかかることになる。謙信の存命中にはその理想は実現できなくなるかもしれない。そのうえ、俗物の家臣の欲望をつねに満たすためには道義に反するようなことも続けなければならないから、謙信の頭に描いた理想が相当ゆがんでしまうことは避けられない。とはいえ、それ以外に理想を少しでも実現させる方法はないだろう。

しかし謙信は余りに潔癖で、自分を低い現実に合わせることはついにできなかった。現実を無視し、高みから自分の理想を押しつけるだけなので、家臣から理解されず、しばしば裏切られさえした。こうして結局謙信の理想は少しも実現せずに終わるのである。皮肉なことに、信玄を裏切った家臣はいなかったという。裏切りを戦術とした信玄が裏切られず、裏切りを軽蔑した謙信が裏切られたのである。

後醍醐天皇が優れた人物であったにもかかわらず、建武の中興がわずか二年で挫折してしまったのも現実を無視した結果といえよう。天皇は古代の天皇制や律令国家の復活を理想としていたが、すでに世の中は武士の時代であり、鎌倉幕府を倒したのも武士の力であった。天皇には謙信の武力に匹敵するような実力は全くなかった。にもかかわらず天皇は公家を中心として新政府を組織し、武士を冷遇する政策を実行した。だから不満をもつ武士によってその政府が倒されたのも当然の結果だった。

理想に燃える天皇には、公家と武士の実力の差という現実が目に入らなかったのだろうか。しろうとの推測で恐縮だが、現実を見詰めれば、理想を捨て、武士と妥協して象徴的な存在に甘んじるか、表向きは妥協しておいて、はるか未来における理想実現のため長期計画を立てるか、どちらかの道しかないことが明らかになったのではなかろうか。

もっとも、天皇の頭の中には身分の低い武士と妥協するなどという発想の生まれる余地はなかったのかもしれない。しかしそれは当時の状況ではどうしても必要なことだった。それをしなかったために、最終的には南北朝の動乱をまねき、かえって天皇の勢力は完全に失われてしまうのである。理想を実現するためには、状況によってはその理想を一時あきらめる勇気や知恵も必要なのだといえよう。

戦国時代の末期、今の大分県にあたる豊後の国に大友宗麟という有力な大名がいた。ある作家の書いたものによると、キリシタンに改宗した宗麟は自国を理想のキリスト教国に変えようとした。そこでは全住民がキリシタンで、宣教師たちの母国ポルトガルの法律によって治められるはずだった。まず宗麟はキリスト教に対する忠誠を示すため、神社仏閣を焼き払った。ところがそのおかげで、家臣の心が離れ、士気が低下し、隣国薩摩の島津軍に大敗してしまう。それをきっかけに領内に反乱が相次ぎ、理想のキリスト教国どころではなくなってしまったのである。

本人は気づいていなかったかもしれないが、宗麟はことを急ぎ過ぎたようだ。ふつう人は急激な変化を余り好まないものである。まして先祖伝来の信仰を踏みにじられれば反発するのも当然といえよう。もともとキリスト教国などが一朝一夕にできるはずはなかったのである。

たとえ良いことであっても、性急に実行に移せば悪になってしまう場合も多い。人の適応力には限界があり、それ以上の変化にはついていけないのである。そのことを頭に入れて、適度な速さで実行するのが現実的なやり方であり、それが成功をもたらすのである。だが理想家はしばしばそれを歯がゆく思い、すぐに成果を上げようとして、焦って失敗する。理想家の心の中に功名心がひそんでいる場合もある。

理想とは、少なくともそれをかかげる者にとっては、現実よりも優れたものである。だから理想家は当然現実を低いもの、自分を高いものとみなす。慢心さえなければそこまでは問題ない。問題は多くの理想家が現実のレベルにまでおりようとはしないことである。

理想は現実を変えなければ実現できない。現実を変えるためには、まず現実を知り、現実に合わせるしかないのである。真の理想家は現実を変えるために、だれよりも現実家でなければならないのだ。謙信も後醍醐天皇も宗麟も真の理想家ではなく、夢想家とでもよぶべき人たちだったのであろう。

ところで、この小論の読者の多くは、心の向上に興味をもたれるくらいだから、理想家タイプに属するのではないだろうか。謙信らと同様に、何らかの理想をもって世の中をよくしていきたいと思われる方も少なくないと思う。だが、失礼ながら、このタイプの人はどうも理想にこだわって夢想家になってしまう傾向をもっているようだ。その結果、優れた理想が少しも実現しないとしたら残念である。その点で例にあげた三人は貴重な教訓を残してくれていると思うが、次に私たちにもっと身近な実例を一つあげてみたい。

心を何よりも大切だと思う人は、俗世の地位や名誉などの肩書は一切価値をもっていないと考える。私もそれには異論はない。肩書はその人の一部を表すだけで、その人の心については何も語ってはくれない。しかし周知のように世間では、地位や名誉が大きな力をもっている。多くの人がそれで人の価値を判断する。だから、たとえば、一般の人がいくら正しいことを言っても無視されるのに、地位や名誉のある人のことばには、たとえそれが正しくなくても、多くの人が耳を傾ける。愚かしいことだとは思うが、残念ながらこれが現実である。

ということは、使いようによっては肩書は世の中をよくするための強力な武器ともなりうるのである。地位や名誉の持ち主が立派な人であれば、多くの人によい影響を与えることができるわけだ。だから自分の欲を満たすためではなく、世の中のために地位や名誉を目指すのは何ら悪いことではない。世の中の低いレベルに合わせた現実的な方法である。俗悪な人たちが肩書を最大限に利用しているなら、なおさらその方法は必要である。

もちろん無名の人の努力も尊い。地位や名誉のある人の行動といえども、価値の点では無名の人と全く同じである。しかしその影響力がはるかに大きいことは誰も否定できないだろう。世の中をよりすみやかに変えるためにはやはり影響力も必要なのである。世俗的なものを嫌って生きるのも一つの生き方だとは思う。適性の違いもあるのだから色々な人生があっていい。だが地位や名誉を得る能力も適性も十分にもっている人は「そんな俗悪なものなど・・・」と頭から敬遠せずにそれに挑戦すればいいのではないか。それもまた一つの立派な生き方である。

肩書について述べたことは、金銭、容姿、服装、習慣、伝統などにも大なり小なり当てはまるだろう。そういったものには心以上の価値はない。それどころか、マイナスの価値をもっている場合さえある。心を大切にする人たちはこういうものを軽視しがちだが、現実には一般の人々の心を強くとらえているのである。だから、それらを無視したり、まっこうから攻撃したりすれば、周囲の反感を買ったり、非常識と軽蔑されたりして、まるで相手にされなくなるおそれがある。むしろそれらを尊重したり、活用したりすることによって理想の実現をめざすという方法の方が優れている場合もありうるのである。

さて、「理想家」ということばには、夢ばかりみて実際の役には立たない人という意味もあり、一般には理想家とよばれるのは余り名誉なことではないと思われている。私は理想家の一人として、それが少々残念である。だからこのことばの意味を変えるためにも、現実をわきまえた真の理想家に数多く登場してもらいたい。辞書を引くと、「理想家」ということばがほめことばとしてのっている----そのような日が来てほしいものだと思っている。

参考文献
「武田信玄と上杉謙信」中山義秀『日本歴史シリーズ第九巻 戦国時代』世界文化社。昭和41年。
「後醍醐天皇」榊山潤『日本歴史シリーズ第七巻 南北朝』世界文化社。昭和44年。
「大友宗麟」劉寒吉『日本歴史シリーズ第九巻 戦国時代』世界文化社。昭和41年。

(1988・9・25、1989・2・24 改稿)


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