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理解と世界平和

荻野誠人

 国際化の波が教育にも及んでからずいぶん経つ。「国際理解教育」という分野もすっかり定着したようだ。地図を広げてどこにどんな国があるかを教える小学校の授業から、インターネットを使って外国の学生と交流する高校生の活動まで実に多彩である。マスコミで紹介される、未知の文化に触れる児童・生徒達の顔は例外なく明るい。
 だが、わずかながら気になることがないでもない。それは単純に言えば、理解し合えば世界は平和になるといった考え方が垣間見えることである。
 それのどこが問題なのか、と言われるだろう。いや、外国を理解することが大切なのは言うまでもない。
 例えばモンゴル人は何かをしてもらっても、日本人と違いはっきりと「ありがとう」とは言わないそうだ。だからといって感謝の気持ちがないわけではなく、感謝は言葉でなく、後日行為で示すという考え方なのだという。それを知らない日本人がモンゴル人に贈り物をしたら、ろくにお礼も言ってもらえないというので頭に来ることは間違いない。その日本人はモンゴル人というのは何という失礼で恩知らずな民族だと思い込むだろう。
 モンゴル人なりの考え方を知って理解すれば、無用の摩擦は避けられる。そういった個人個人の理解がひいては両国の摩擦を避けることにもつながると言えよう。それと同様に他国のことを理解していけば、世界中の国に対する誤解もなくなるだろう。
 しかし、世界平和という壮大な目標のためにはそれだけで十分なのか、ことはそんなに単純なのだろうかという漠然とした疑問が残るのである。ただ以前は余り深くは考えなかった。国際理解というのは基本的にはいいことなのだろうから、枝葉の部分を取り上げてケチをつけるのは、いかにも自分の性格の悪さを証明するようで我ながら気に入らなかったのである。また特に小学生に教えるような事柄は単純でもいいではないかという気持ちもあった。とにかくまず夢や希望を与えることだ。複雑な国際政治みたいなものは大学にでも入ってから勉強すればいい。
 だが、ある日雑誌の中で「世界平和に貢献する外国語教育を」という堂々たるスローガンに出くわしてしまったのである。これはちゃんと考えないといけないなという気になった。
 日本人に英語を教えれば、英語圏に対する理解が深まる。外国人に日本語を教えれば、日本に対する理解が深まる。だから世界平和に貢献するのだという主張のようだ。しかし、理解の中には平和など目指していないものもあるのではないか。自分の利益のための理解、相手を支配したり打倒したりするための理解もあるのではないか。
 一般人の日常生活でもその実例は簡単に見つかる。例えば、スポーツの試合では相手チームのことをよく知っている方が有利である。これも一種の理解で、自分の利益のためである。
 世界に目を向ければ、相手を自分の思い通りに動かすために、相手を理解しようとするしたたかな人たちも大勢いる。外交や貿易の世界で活躍している人の多くはそういう人なのではないか。
 1975年、昭和天皇とフォード大統領が会談する前に、CIAが徹底的に天皇の性格や関心事を調べ上げたそうだ。傍目には単なる社交辞令と思われる大統領の発言もすべて計算ずくだったのである。アメリカは日本の友好国だが、そこまでして会談の成功を目指すのはやはり第一に自国の利益を追求するためであろう。日本は大統領については大した情報を入手しなかったのではなかろうか。
 かつての共産圏が通信機のようなものを神社の敷地にこっそりと埋めておいたことはマスコミで報道された。神社はめったに移転したりしないことを承知の上でそうしたのである。これも日本を「理解」した上での行動である。またこれは本当のことかどうか分からないが、共産圏では日本の町にそっくりの町を自国に作ってスパイを養成したという。こういったことを知らず、とにかく相互理解をすれば仲良くなれると思っているとしたら、相手の手玉にとられてしまう恐れがある。
 「理解」を国語辞典で調べると「物事に接して、それが何・であるか(を意味するか)正しく判断すること。」(『新明解国語辞典第四版』)とある。世界平和などというものを実現するためには、精神面に限っても相手に対する利他的な愛情や寛容の精神などが必要であろう。「判断」だけではとても足りないのである。相手を理解するのは必要だが、それだけではまだ平和の方を向いたわけではないということだ。
 「正しく判断する」ことも難しいが、利他的な愛情や寛容の精神を身につけることはもっと難しい。教えてどうにかなるものではないかもしれない。外国語教育にそういう倫理的なものまで期待出来るのかどうか。もっとも、スローガンを口にした人もその程度のことは十分承知していて、とにかく希望のある耳ざわりのいいものを、と思ったのかもしれない。だがそれを無邪気に信じ込んでしまう人が出るとしたら問題だ。
   世界には自分の利益のために「理解」しようとする人たちも大勢いる。それをどこかで教える必要がある。小学校などではいわば人を疑うようなことは取り上げにくいだろうが、高校生位ならもういいのではないか。理解すれば平和になるという公式だけを頭の中に植えつけられれば、日本人は皆カモになってしまう。

                            2002・10・19


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