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宗教団体の問題点について

荻野誠人

  一時幾つかの反社会的な宗教団体が立て続けに事件を起こしてマスコミを賑わした。宗教の犯罪も見過ごせない問題だが、それはいわば表に出て人目を引く部分である。影に隠れた、宗教団体の根本的な部分にある問題点を、この小論で私の経験も踏まえて取り上げることにしたい。もちろん宗教には良い面も沢山あるし、立派な信仰者が大勢献身的に働いていることも知っている。何よりも私自身が宗教に育てられ、今でも感謝の気持ちを失ってはいないのである。

 教祖・聖典やそれに基づく教えは絶対の存在なので、批判を許さない。教団の権威や求心力はそこから生まれるので、自由な批判を許せば教団は崩壊してしまうだろう。普通の人間同士なら、相手の長所も短所も認めつつ付き合うのだが、教祖・聖典に対してはそんな「つきあい」は決して認めない。これは宗教の宿命である。同様に教祖・聖典の権威を帯びている現指導部に対しても批判を許さぬ雰囲気がある。
 だが、色々な宗教をみてみると、教えに首をかしげざるを得ない場合も多い。そもそも矛盾し合う各宗教の教えすべてが真実だということはあり得ない。多くの教えには誤りがあると考えた方が自然である。また、仮に教祖がその時点で完璧な教えを説いたとしても、どんな優れた人物でも時代の制約を乗り越えることは出来ない。何千年も未来の社会の変化を予想することなどは不可能だから、その教えは時がたつにつれて社会からずれていく。世俗的な組織なら批判が求められるのだが、宗教ではそれが出来ないので、何とか解釈で辻褄を合わせるという苦しい作業を永久に続けなければならない。
 批判をしようとすれば、信仰は理屈ではない、と言われる。確かに信仰の真髄は理屈ではなかろう。そして無条件に他を信じる行為は美しいとさえ言えよう。だが、無条件の信仰を捧げる対象が殺人まで行なうような宗教だったとしたら、どうか。そこまで行かずとも、反社会的な宗教も意外とあるのである。多くの信者が教義の欠陥を見抜いて批判したり脱会したりすれば、反社会的な行為はある程度防げたはずだ。理性による批判は信仰の世界でも必要ではないだろうか。
 批判の中には単に相手をやっつけて優越感を感じたり、自分の優秀さを証明したりするのが目的のものもある。また、批判ばかりして行動が伴わない場合もあるので、余計に批判は歓迎されないのだ。しかし、自分の当然の権利を守ろうとするもの、純粋に疑問を明らかにしようとするもの、相手のためにするものなどもある。そういった批判も教祖や聖典に向けられた場合は頭から否定されたり、周囲から白い目を向けられたりする。「未熟者」としてにこやかに世話してくれる心の温かい指導者や仲間も多いのだが、批判を受け入れることはない。これでは健全な批判力は育ちようがない。批判力の持ち主はその宗教にいる間は我慢したり妥協したりするしかない。私の知人の中には世間に対しては鋭い批判を繰り広げるのだが、教団幹部に対してはぴったり口をつぐんでしまう人が何人もいた。もともと批判などに向いていない大人しい人はますます従順になっていき、教団でおかしなことが始まっても黙々と従うようになる。

   どんな宗教でも自分の神や教祖や教義が世界最高であると主張する。少なくとも、うちは二番目だと言う宗教は見たことがない。二番目では、誰も信者になってくれないし、わざわざこの世に登場する大義名分がなくなってしまう。他宗を尊重する姿勢を見せる宗教もあるが、あくまで自分が一番だと確認した上での尊重である。
 これは批判を許さないことと裏表の関係にある。批判を許さないのは完璧だからであり、完璧ということは最高だということである。
 その宗教の信者はその主張に知らず知らず影響される。傲慢が芽生えてきて、他宗の信者や無宗教者や世間の人々を見下すようになる。私自身がそうなった。「うちの神様は最高位ですから」などと優越感を感じながら偉そうに言ったものだ。謙虚を説く宗教も多いが、それはその宗教の神や信者だけに向けられた謙虚であったり、心のどこかに自分が一番だという満足を隠した謙虚であったりする。露骨に他宗を馬鹿にする教団幹部もいる。そのような態度は当然周囲に摩擦や争いをもたらす。しかも、世間はその宗教が一番だと認めてはくれず、どの宗教も自分が一番だと称しているので、余計に対抗心を燃やすことになる。世界各地の宗教戦争もこういうところに重大な一因があると思う。
 傲慢な気持ちは、同じ信仰の仲間にも向けられずにはいないだろう。世間を見下す気持ちが即座に仲間を尊重する気持ちに切り替わるはずもない。仲間であっても、不熱心な者や能力のない者に対しては冷たい目が向けられるだろう。
 こういった傲慢さは元々人の心に潜んでいる。しかし、その人が世界最高と主張する宗教の信者にならなかったら、外に現れることはなかったかもしれない。
 また、「一番」というのは二番以下がなければ存在しないので、自然といつも他を意識するようになり、「人は人、自分は自分」という自立の精神は育ちにくい。愛や慈悲は他人に与えるものだが、自立した人間でなければそれは難しいのではないか。他を意識することをやめて初めて分かる自分の個性にも気付きにくい。もっとも、宗教団体は自立した個性的な人間を求めてはいないのかもしれないが。

 信者が幸せにならないのでは、教団の存在意義がない。教団は信者に向かって幸福になるためには最高の神、世界を動かす神の意志のままに生きよと指示する。それしか道はないのである。従って、不幸は神の意志に反した生活を送っているから、信仰が足りないからだということになる。
 しかし、どんな信者も不幸に見舞われるものだ。宗教の指導者達が夫の浮気や失業などで信者の相談にのっているところを何度も見学させてもらった。指導者はその解決策として必ず宗教活動を勧めていた。祈り・献金・布教・労働奉仕・先祖供養などである。それは神としっかりつながっていれば不幸など起こりようがないとする以上は当然の指導なのだろう。また私が近くで見ていたその指導者は善意の人達だったことも言っておかねばならない。その人達は困った信者を決して責めたりせず、温かく励ましていた。そういう指導に従った結果、問題が解決した例も確かにあった。
 しかし、解決しなかった例もあった。その場合、神の力が足りなかったと認めることは絶対にない。最高の神に限界などあり得ないからだ。問題は常に信者の側にあり、業や因縁が深いとかまだまだ信仰が足りないという解釈をもってくるのだが、こうなるともう水掛け論である。
 そもそもそういう教義が疑問なのだが、それはさておき、問題が解決しなかったのは指導が現実的でなかったからではないかと思う。指導者は宗教活動の勧めと同時に実際の浮気や失業対策も提案していたはずなのだが、ほとんど印象に残っていない。私の記憶違いの可能性はあるが、おそらく通り一遍の指示で終わっていたのだと思う。そういったことの専門家ではないのだから、やむを得ないとはいえるのだろう。
 また、懸命に努力しても解決しない問題もあるものだ。時には諦めも立派な解決法ではないか。しかし、そう判断することも神の限界を認めることになってしまうので、これまた信者側に責任があるとされてしまう。
 不幸な信者に何の落ち度もないということもあり得る。例えばどんなに気をつけていても、交通事故にあってしまう人はいるものだ。それでも信者の信仰不足に原因が求められることもある。
 当時を振り返ると、あの時宗教を前面に押し出さない人や宗教とは無縁の現実的な人に相談していたら、よほどためになる意見が聞けただろうにと思う。不幸は現実と正面から向き合い、現実から学んで賢くなる絶好の機会とも言える。ところが実際には、その機会をみすみす逃し、一体自分の信仰のどこに問題があるのか、という疑問の迷路に踏み込んでしまったのである。
 信者は真面目であればあるほど神の意志を推し量りつつ毎日を送ろうとする。幸福な時はそれで何の問題もないのだろう。しかし、不幸にあった時、その真面目さゆえにかえって現実を見失い、ますます不幸に沈んでいく恐れがあるのではないだろうか。

 さて、この小論に対して「いや、うちの宗教は教祖や聖典も批判して構わない」「うちは決して自分のところが世界一などとは言わない」「うちは俗世間で自立してたくましく生きていくように指導している」と反論する宗教団体があるだろうか。それなら大変結構である。もし三点すべてで反論出来る宗教があるのなら、世間にどんどん広まってほしいとさえ思う。

                             2002・12・19


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