伝記

『信長』/秋山 駿/新潮文庫

 織田信長の天才ぶりを見事に解きあかした画期的な評伝。信長は一人で前例のない新しい世界を創り出そうと疾駆していたのだ。著者の手にかかると、信長の異常と思われる行動が全く違った意味をもって光りだす。信長の生涯自体が劇的であることと相まって、本書は実に面白い。もちろん信長は人格者ではないが、その独創的な生き方は我々を奮い立たせてくれるし、著者の洞察ぶりは、いかに人間を理解すべきか、のお手本になる。ただし、『信長公記』という古文書が現代語訳抜きで頻繁に引用されるのにはまいった。(荻野誠人)

『内村鑑三』/正宗白鳥/講談社文芸文庫

 熱烈なキリスト教指導者の内村鑑三(1861-1930)の評伝。著者は自然主義作家で、文芸批評の創始者。若い頃は内村の強い影響を受ける。本書は普通の伝記ではなく、内村の思想と著者の思想の対決がテーマである。内村の熱狂的、理想的だが、非現実的な思想を、内村が本当に身につけていたのかと著者は常に疑う。著者の思想ははるかに妥協的、打算的だが、現実的で、万人向けであり、人間性を深く理解している。情に左右されぬ判断はさすがに批評の大家と仰がれるだけのことはある。本書を著した時、白鳥は70歳であった。理想に燃える若い人には物足りないかもしれないが、円熟老成の境地を味わうのも悪くはない。(荻野誠人)

『あなたにめぐり逢うまで 』/ドリス・ドラッカー/清流出版

 本書は、世界的経営学者P・F・ドラッカーの妻ドリスが、夫にめぐりあうまでを記した半生記である。ドリスは、大手出版社の科学編集者、弁護士、発明家、経営者とマルチな才能を発揮する職業婦人。しかし、そんな彼女が育った環境は、母親と旧時代の慣習に縛られた、とても窮屈なものだった。「あなたの考えなんか聞いてないわ。あなたのために一番よいと私が決めたことを黙っておやりなさい」。母親は彼女のすべてを支配したがった。しかし、そんな母親の束縛から彼女を救ったのは、学問への“知的な旅立ち”だった。医者になる夢は閉ざされたが、代わりに始めた経済学の勉強のおかげで、彼女はドラッカーと出会ったのだった。また、この書には20世紀初期のヨーロッパを生きる人々の姿が鮮やかに描かれている。第一次世界大戦の末期や、それに続く敗戦国ドイツの窮乏。まだ世界一の大国意識から抜けきれぬロンドン。自由を求めた若者が集まるパリ。「そうだ。これがあの頃のヨーロッパだよ。僕もここで大きくなったんだ」。本書の特別寄稿の中でそうドラッカーが述べているように、ヨーロッパの教養人を育んだ時代環境が生き生きと再現されている。人生の運不運を人のせいにしない彼女の生き方は、現代女性の自己実現にも多くのヒントを与えてくれるだろう。(服部桂子)

『イエスの生涯』/遠藤周作/新潮文庫

 イエス・キリストの評伝。著者独自の視点から鮮やかに描き出された愛の人イエスが、聖書をしのぐ感動を与える。なるほど、こんな人だったのか、と私は何度もうなずいてしまった。奇跡や父なる神との関係など、霊的な側面は余り扱われていないが、イエスはあくまで愛において偉大だったのだと主張したいのだろう。イエスの生涯の謎の部分に光りを当てる推理小説的な面も楽しめる。『キリストの誕生』はその続編。ペテロ、パウロら使徒の活躍や対立、そしてイエスが次第にメシア化されていく過程が興味深く描かれている。なお、同じ著者の小説『沈黙』『海と毒薬』『深い河』も一読に値する傑作。私は以前著者を狐狸庵先生のイメージが強くて敬遠していたが、本書を読んで現代作家中最も尊敬するようになった。(荻野誠人)

『大人のための偉人伝』/木原武一/新潮選書

 偉人伝を子供に独占させておくのはもったいない。偉人伝から学ぶべきはむしろ大人の方である、という著者の考えにはもろ手をあげて賛成したい。本書では子供向けの偉人伝では割愛されがちな偉人の生涯全体が簡潔に紹介されていて、偉人に対する認識を新たにするよい機会を与えてくれる。シュワイツアー、ヘレン・ケラー、リンカーン、ガンジー、野口英世、二宮尊徳が取り上げられているが、分量が物足りない人は、本書の参考文献を手ががりに、さらに本格的な伝記に挑戦することをお勧めしたい。(荻野誠人)

『落日燃ゆ』/城山三郎/新潮文庫

 広田弘毅は外交官・外相・首相として、戦争防止のために粘り強く懸命の努力を続ける。しかし、暴走する軍部に翻弄され、日本は遂に第二次世界大戦に突入。敗戦後はA級戦犯として被告席に立たされる。ところが広田は理不尽な非難に対しても一言の自己弁護もせず、淡々と死に赴く。広田の優れた外交手腕、控えめで誠実な人柄、悟りに達したような無欲な態度。日本の政治家にもこんな人がいたのか、と驚くほかなかった。私たち日本人はこの人物を誇りにしなければならない。(荻野誠人)