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お手伝いの効用

荻野誠人

 夏休み前の教室で中学の教師が私達に配った紙には、休み中の注意が色々と書かれていた。その中に「勉強をしない日はあっても、お手伝いをしない日はないように」とあったのを、なぜか三十年経った今頃よく思い出す。当時反抗的な生徒だった私は、またいつもの親孝行の勧めか、と一瞥(いちべつ)して鞄にしまいこみ、二度と読まなかった。

 「心の教育」の必要性が声高に叫ばれている。思いやりのある心を育てようということなのだろう。凶悪な少年犯罪や教育現場の荒廃などのニュースを見聞きして、誰もがその必要性を感じてはいるのだが、では具体的な方法は、というとなかなか名案はないようである。お説教だけでは大した効果は期待できそうもない。そこで私も自分の体験をもとに私なりの方法を考えてみた。

 心の教育の為には、人の心に直接触れさせる必要がある。その体験を通して人の心を理解し、人を喜ばせたり、助けたりすることを学ばせるのである。心は心でしか育てられないのだ。

 その為には、受験勉強のようなものは余り役に立たない。それは自分自身の為のものである。教室や部屋で問題を解いていても、他人の心にふれる機会はない。だから、いくら勉強しても、頭が良くなるだけで、他人の心を理解出来るようにはならないのだ。もちろん思いやりなどが育つことは期待できない。

 また、自分のことを自分でやらせるのはしつけの根本であるが、やはりそれだけでは他人の心を理解するには不十分である。規則的な生活をしたり、身だしなみに気を配ったりするのはけっこうなことだが、そこにも人の心を学ぶ機会は余りない。

 人の心に触れさせるためには、やはり他人に直接影響を与えることをやらせるべきである。その身近な例が、家での「お手伝い」である。

 その中でも特に心を育ててくれるお手伝いは、料理であろう。料理する時は家族の好みや健康を考えなければならない。自然に他人についてあれこれと思いをめぐらし、工夫をこらすようになる。また食べた家族が喜ぶ顔を見たり、感謝されたり、家族ならではの遠慮のない意見を聞いたりして人の心にふれることが出来る。

 もっとも、単に料理を作るように命じても余り効果がない。子供は何も知らないのだから、食べる家族のことを考えながらつくるようにと最初に親が正しい方向を示してやる必要がある。この方向づけは何をさせる場合でも肝腎である。

 そういう心構えで料理を続けていくうちに思いやりの技術と言うべきものが身についていく。人を喜ばすための細かい心配りが出来るようになっていく。人の好みが自分と違うのを知り、家族の間で対立する好みをどう調整するかという知恵も身につく。いいことずくめである。

 ただ、料理は火や刃物を使う。それほど凝った料理を作る必要はないのだが、それでも余り小さい子供には無理である。また、そもそも料理などに興味を示さない子供もいるだろう。そういう場合は、料理ほどの奥の深さはないだろうが、掃除や洗濯や買い物などもいい。相手の気持ちや都合を考え、心をこめてやれば、親の笑顔が待っていて、子供の心も豊かになる。いい加減なことをやったら、家族に迷惑をかけることも身をもって知ることが出来る。

 弟や妹、または病人や老人がいるのなら、その面倒を見させるのも大きな効果があろう。弟や妹はまさに自分の思いどおりにはいかない「他人」である。病人や老人も、健康な自分とは違う状況にある「他人」である。しかも両方とも思いやりを必要とする一種の「弱者」でもある。そういった家族の面倒を見ていくうちに自然と心が練り上げられていく。自分とは違う他人の存在も認められるようになる。

 お手伝いとは少し違うが、プレゼントをさせるのもいい方法である。もちろん相手の喜ぶものを贈るように言っておく必要がある。そのような贈り物をするためには相手のことを知り、あれこれと知恵を絞り、デパートやスーパーを歩き回らなければならない。料理で苦労するのと同じような効果があるだろう。

 小学校高学年くらいになれば、ボランティア活動ももちろんいい。これもお手伝いの一種と言えよう。活動に優劣をつけるつもりはないが、「心の教育」のためには、人と直接ふれあえる活動が望ましい。たとえば、老人や身障者のお世話などである。わがままの通らない他人との接触からはまた新たな学びがあるはずだ。

 ところで、念のため述べておくが、ボランティア活動の中には、ごみ拾いのような人知れず行うものや、犬猫の保護のような相手にお礼を言ってもらえないものも数多い。つまり人の心と直接触れぬ活動である。こういった活動もなくてはならない尊いものであり、誰かがやらねばならない。いつまで経っても、目立つことやほめてもらえることしかやらないのでは困る。だが、いわゆる陰徳を積むのは忍耐や根気がより必要な難しい行為であり、子供に最初からそればかりをさせるのは無理であろう。小さい間はやはり周囲にほめられながらよいことをしてもいいのではなかろうか。年相応でいいと思う。

 考えてみれば、お手伝いは三十年位前まではどの家庭でも当然のことだったのではないか。それが核家族化・少子化・家電の普及・受験戦争などで段々機会がなくなってすたれてしまった。親も勉強第一と考えるようになって「雑用」をやらせなくなった。しかし、これまで述べてきたように、お手伝いは心の教育の為にはとても有効な手段である。是非お手伝いを復権させるべきだと思う。

 「勉強をしない日はあっても、お手伝いをしない日はないように」。この指導は、単に親の負担を軽くするためのものではなかったのだ。ひょっとすると教師自身も気づいていなかった「心の教育」のための優れた指導でもあったのだ。

(1998・9・26)


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