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お互いさまで生きる

荻野誠人

 生きていくことは、周囲に迷惑をかけることでもある。ここ数年、そういう思いが心をよぎるようになった。
 全く周囲に迷惑をかけずに過ごしていける人というのは、いるのだろうか。
 欠点があって当然の大多数の人にはそれはとても無理なのではないかと思う。何とか迷惑をかけないようにと努力しても、どうしてもかけてしまう。私の実感である。
 しかも、迷惑をかけたことにさえ気づかないことが、けっこうあるはずだ。なぜそう断言できるかというと、私たちは自分が迷惑をかけられたと不愉快になっても、我慢して相手に気づかせないことも多いからである。さらに、環境の問題のように、仮に私たちが原因になっていても、遠い国の被害者たちは誰に迷惑をかけられたか分からず、私たち一人一人に直接苦情を言えないといったこともある。相手が何も言えない動植物ならなおさらだ。
 一方、誰にも迷惑をかけられたことのない人というのは、いるのだろうか。おそらくいないだろう。なぜなら、誰にも迷惑をかけたことのない人がいないからだ。
 迷惑をかけないようにと精一杯努力することや、かけたときには謝ったり、責任をとったりするのは大切なことだろうが、迷惑をかけたり、かけられたりするのは普通の人間同士ある程度しかたのないことだという、自分や他人に対する寛容な見方を同時にもっていることも必要なのではないだろうか。そうでなければ、度を越えて自分を責めたり、他人を憎んだりしかねない。

 だが、生きていくことは、自分の至らなさにため息をつくようなことばかりではない。周囲を喜ばせることでもある。
 多くの人は家族や友人を喜ばせようとして、うまくいっている。失敗もあるけれども、成功する方がずっと多いだろう。
 その上、意識的にやっていること以外にも、私たちは他人を喜ばせているはずだ。赤ちゃんは、自分から何かしようとは思わないけれども、そこにいるだけで、両親だけでなく、通りすがりの人の心さえも和ませる。そして、赤ちゃんは決してそれに気づくことはない。
 赤ちゃんと同じで、私たちも、意図的ではないけれども、誰かを喜ばせたり、誰かの役に立っていることがきっとある。生きているだけで、そこにいるだけで、人を喜ばせることもあるだろうし、ちょっとした表情・しぐさ・言葉などが通りすがりの人を元気づけたり、感心させたりすることもあるだろうし、自分の残した小さな足跡が他の大勢の人の足跡と溶け合って、いずれは誰かを助けることもあるだろう。しかも本人はそれに気づくことはない。
 なぜそう断言できるかというと、私たちも、すれ違っただけの気にも留めない人や、顔も知らない遠くの人や昔の人から何かの恩恵を受けたことがあるはずだからだ。私たちが逆の立場に立つことがあっても不思議ではない。

 生きていくのは、お互いさま。あるとき、ふと人生のそんな一面を垣間見たような気がして、興味深かったので、こうして書いてみた次第である。

2011・5・1

 


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