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お説教の「最終兵器」

荻野誠人

 昔、私が我慢したんだから、今、あなたも我慢しなさい。

 こういうお説教の「型」があります。よく使われているのではないでしょうか。例えば、冷房が故障して、子供が文句を言ったときに
 「昔は冷房なんかなかったの! それを私たちは我慢してきたんだから、ちょっとくらい冷房が使えないからって、文句言わないの!」
 と押さえつけるわけです。どうでしょう。自分は言ったことがないという人も、聞いたことくらいはありませんか。新聞記事でさえ似たような論調にお目にかかることがあります。実は私も時々使いました。よく覚えているのを挙げましょう。
 日曜と振替休日の連休を前に
 「○○をやっておくこと。連休があるから大丈夫だろ?」
 「無理ですよー。忙しいんだから」
 「何言ってんだ。僕が子供の頃は祝日が日曜と重なったら、祝日は消えたんだぞー。今の子供の方がよっぽど暇で楽じゃないか。文句言うな」
 相手は、祝日が消えたという事実に少々驚き、抵抗する気をそがれます。
 この種のお説教の力は圧倒的で、相手はなかなか反論できません。

 しかし、自分で使っておきながら、この論法にはずいぶん以前からどうも納得のいかないものを感じていたのです。自分が説教している最中ですら、余りいい説得法ではないな、という気がしていました。
 そこで考えてみると、二つの問題点らしきものが浮かんできました。

 一つ目は、非常に効き目があること自体に潜んでいます。相手に有無を言わせないのですから、話し合って理解するということがありません。また、説教する側の手抜きにもつながりかねません。例えば説教している人が何か相手に不満を感じさせるようなことをやっていたとしても、黙らせてしまえるわけです。私の例などまさにそれで、相手の事情に耳を傾ければ、別の方法があったのかもしれないのですが、それを無視する強引かつ安易なやり口と言えましょう。時間が全然なかったからというのが言い訳ですが・・・。

 二つ目の問題点は、説教している人は、される人に、自分以上の我慢を強いているということです。え、同じだけの我慢じゃないのか、という声があがりそうです。確かに同じ我慢だと思うからこそ、説教される側も渋々従うのです。
 では、冷房の故障で考えてみましょう。冷房のなかった頃は、暑さのみに耐えればよかったのです。ところが、冷房が当然の今の人は、エアコンが故障してしまったことへの不満や怒りやいらだちも味わわねばならないでしょう。昔の人はそもそもエアコンがないのですから、そんな感情はもちようがありませんでした。
 さらに今の人は普段から冷房に慣れているのですから、当然昔の人よりも暑さに弱くなっているはずです。気温は同じでも、今の人の方が苦痛はひどいはずです。
 つまり、世の中が進歩している場合は、今の人が昔に戻れば、昔の人以上の苦痛を味わわざるを得ないのです。
 そんな今の人を「弱い」「だらしがない」とけなすことは出来ません。別に自分から進んで弱くなったわけではなく、むしろ私たち上の世代がそうなるように仕向けたのです。責任はこちら側にあります。
 こう考えてくると、昔自分が我慢したんだから、今あなたも我慢しなさい、という命令は、ちょっとむごく見えてくるのではないでしょうか。我慢する以外の方法があれば、それも検討するべきではないかと思うのです。
 冷房の故障の場合は、我慢より他に方法がなさそうですから、しかたがありませんが、それでも、かつての自分以上の我慢をしているのだと思ってやれば、説教する側の態度も自ずと変わってくるのではないでしょうか。

 私はこの「型」を決して使うべきではない、と言うつもりはありません。四の五の言わさず即座に従わせることが必要な場合もあるでしょう。また、説教の方法は、相手によっても変わってくるはずです。
 しかし、私は安易にその方法に頼りたくはありません。相手を封じ込めてしまうのではなくて、出来れば相手にも言いたいことを言ってほしいと思っています。理想を言えば、その「型」は、「最終兵器」としてとっておきたいのです。

                    2009・7・15

 


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