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オレは客だ!

荻野誠人

 怒声が聞こえた。私は足を止め、その方角に目をやった。紳士服売り場で何かもめているようだ。中年の男性と女性の店員である。私はその様子を少し離れたところから見ていた。何があったのか知らないが、男性は「オレは客だ」「客を何だと思ってるんだ」と言わんばかりの態度である。店員の方は必死に物柔らかな微笑を浮かべ、何度もうなずき、客に賛意を表わそうとしているようだ。客はわざとらしいため息をつき、人を小馬鹿にしたように顔を歪め、「しょうがないねえ」とでも言いたげに首を左右に振る。どうやら一件落着のようである。野次馬が散っていく。私もそこを離れた。・・・私はああいうもめごとには余り出くわさないが、あそこまでいかなくても、いやに無愛想で偉そうな態度の客ぐらいならよく見かけるものだ。

 客というのは、無条件で店員より強い立場に立っている。客に店を選ぶ権利があるからだ。客に嫌われたら、商売あがったり、である。だから、店側は何とか客に気に入られようと知恵をしぼる。新人研修でも、客の言葉には常に従えと教えることが多いようだ。客は店に入った途端、お殿様お姫様よろしく、やりたい放題できる立場に祭り上げられるのである。

 だが、その立場を本当に利用して好き勝手なことをする客は自分の幼稚さをさらけ出しているのだ。その客は「私は欲求不満で、わがままで、弱いものいじめが好きなんです」と告白しているようなものである。

 政治家や高級官僚や一流企業の幹部などの傲慢さはよく知られている。彼らは権力を握って強い立場に立っているからそうなるのだ。そして庶民はそういうお偉いさんを嫌い、軽蔑する。しかし、庶民の中にも、客というほんの少し強い立場に立っただけで、たちまち店員に対して偉そうな態度をとる人がいる。お偉いさんもその庶民も結局は同じなのだ。

 私はデパートの人ごみの中を歩きながら、あの冷たい扱いを受けた店員はどうするだろうか、と思った。家に帰って家族やペットに八つ当たりするだろうか。それとも今度は自分が客になって、別の店の店員に憂さ晴らしでもするのだろうか。すると、とばっちりを受けた方は、また別の相手に・・・と、どこまでも波紋が広がっていく。それもみな、一人の客の傲慢な態度が始まりである。そういう客が何千、何万といれば、世の中は本当に不愉快な住みにくいものになってしまう。

 しかし、・・・ということは、良い態度の客が沢山いれば、それだけ世の中は愉快で住みやすくなるわけだ。

 誰もがどこかで客になるものだが、そのときの振る舞いには意外と重みがあるのではないか。そんなことを思いながら、デパートを出た。

(1998・2・22)


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