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人間関係と寛容

荻野誠人

 メールの文章は人を傷つけやすい、などと言われているので、送信する前に慎重に文章を見直す人は多いでしょう。ところが、もうだいじょうぶと思って送ったところ、受け手が機嫌を損ねてしまったということもしばしば起こります。
  ただ、よい文章にするために推敲するといっても、きりがありません。一通に何時間もかけることは不可能です。たとえかけたとしても完璧なものになる保証はありません。どこかで見切り発車するしかないでしょう。その結果、送り手に悪意はなくても、時に傷つけられる人が出てしまうことになるのです。
  このことは何もメールに限りません。手紙も電話もそうですし、直接会って話しても同じことです。それどころか、コミュニケーションだけではなくて、行動でも誰かを傷つけてしまう可能性をなくすことはできません。ある行動がすべての人を満足させることは、まずないのですから。
  ということは、生きていくこと自体が、いつも誰かを傷つけてしまう恐れをはらんでいると言えるのではないでしょうか。神様ではないのですから、誰も傷つけずに一生を過ごせる人などいないのです、哀しいことですが。
  だからと言って、居直るのではなく、傷つけることをできるだけ少なくしようという努力は必要でしょう。努力すれば、しただけのことはあります。例えば送り手がメールの文章を丁寧に見直せば、傷つけられる人は減るでしょう。
  しかし、傷つけることを完全になくすことはできませんから、もし受け手が送り手に完全さを求めると、緊張と苦痛に満ちた人間関係しか生まれないことになるでしょう。わずかな失敗や欠陥も攻撃の口実になってしまいますから。
  そこで受け手の側の寛大さが必要になってくるわけです。お互い不完全な人間なんだから、と多少の問題点は、許す、気にしない、我慢する、穏やかに注意するといった応対をしてくれる相手なら、送り手の方はずいぶん気持ちが楽になるというものです。そして、送り手が受け手になるときはやはり相手に対して寛大な態度をとることにするでしょう。
  もっとも、自分が寛大であるから、相手も寛大であってほしい、という期待が芽生えてしまうのは自然な成り行きかもしれません。その気持ちが強すぎれば、相手に甘えて、送り手としての自分の努力を怠ることになりかねませんから、要注意ですが。
  まとめますと、メールなら、送り手は事情の許す範囲で、相手を傷つけないように精一杯努力する。受け手は、多少の問題点は寛大に受け止めて、事を荒立てない、ということになるでしょうか。人間関係は、このように両方の努力によって成り立つものではないでしょうか。

2009・3・11、10・27

 


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