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時には「逃げてもいい」

荻野誠人

 ネット上のある「名言集」に「逃げてはいけない」という内容の名言が書かれていました。表現は若干違いますが。これを読んで、お節介ながら、少し心配になってきました。ひょっとして、この名言を何がなんでも守ろうとする、特に若い人が出るのではないかと。

 こういう名言とか箴言とかことわざの類は鋭く真理をついていると思うのですが、非常に短く表現されていますので、必ずしも人間や世の中のあらゆる面を網羅しているわけではありません。その例として、よく挙げられるのが、反対のことわざの存在です。「渡る世間に鬼はなし」と「人を見たら泥棒と思え」や、「先んずれば人を制す」と「急いては事を仕損じる」などが思い浮かびます。両方とも、おそらく先人たちの経験から生まれたもので、どちらも間違っているわけではなく、両方を合せて人間や世の中の全体像により近づけるのでしょう。もし片方だけを信じ込んでいたら、色々と不都合なことが起こってくるのではないかと思います。

 「逃げてはいけない」という名言についても同じことが言えるのではないでしょうか。確かに、いつも安易に困難から逃げ出していたら、その人は困難を乗り越える強さや智恵を身につけることは永久にできません。私にも、もっと踏みとどまっていればなあ、と思う出来事はいくつもあります。ですから、「逃げてはいけない」という趣旨の言葉が名言集に収録されることに異論はありません。

 しかし、世の中には自分の力ではどうしようもない困難があるのも事実です。また、同じような困難でも、ある人が耐えられたからといって、別の人が耐えられるとは限りません。

 困難にも、自分を成長させる限度というものがあり、それを越えた困難に挑むのは、むしろ向こう見ずということになりかねません。ちょうど、体力をつける適切な運動の限度というものがあり、それを越えるとかえって健康を損ねるようなものです。もっとも、限度を見極めるのは、そう簡単ではないと思いますが。

 私自身、ある仕事で苦い経験があります。余り具体的には書きませんが、今思えば、さっさと逃げ出せばよかったのです。そういうことが可能な仕事でした。いやな予感があったのにもかかわらず、逃げるのは恥だ、これも試練ととらえてがんばろうとやせ我慢をしたために、失敗を続けて、精神的にもおかしくなって、周囲にも迷惑をかけてしまいました。

 我慢が裏目に出たという実例は私の周囲にもあり、間接的に聞いただけですが、我慢強い若者が亡くなってしまうという悲劇もあったそうです。また、マスコミに取り上げられる、育児や介護を独りで頑張りすぎた末の不幸な事件も枚挙に暇がありません。

 逃げることがいつもよくないことのように思っていると、逃げるのをためらうことになります。しかし、安易な逃げでなければ、それも立派な一つの選択になり得ます。そして、一人一人個性も能力も環境も違うのですから、他人の行動が基準にならない場合もあるでしょう。ですから、逃げたからといって、必ずしも自分を責めたり、恥ずかしく思ったりすることもないわけです。

 「逃げてはいけない」はことわざではありませんが、反対の意味をもつことわざがあります。「逃げるが勝ち」や「三十六計逃げるに如かず」です。先人は決して逃げることを否定的にばかりはとらえていなかったのでしょう。何の変哲もない結論になってしまいますが、要は臨機応変です。困難に直面したら、自分を守り、育てるための適切な選択をすればいいのであって、その結果が、踏みとどまることになっても、逃げることになってもどちらも問題はないのです。

2012・2・26



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