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年長者の最後の務め

荻野誠人

 親、教師、先輩など、年長者の務めとは何だろうか。それは年少者に手本を示すことではないだろうか。しつけも勉強も仕事もみな年長者が手本を示すことで年少者へと受け継がれていく。 
  だとすれば年長者の人生における最後の務めは、年少者に死ぬ手本を見せることにならないだろうか。
  ほとんどの人は死を避けたいと思う。しかし、この歓迎しない客は否応なくすべての人の所へやってくる。おまけにこの客ときたら正体不明である。だから余計に不安が募る。そろそろ来るのかもしれない。応対をどうすればいいのか。これほど年長者からの手本がほしいものもない。
  ところが、これほど手本を示すのが難しいものもない。
  なぜなら、いかなる年長者でも死は体験していないからだ。体験していないものについて手本を示すことなど果たしてできるだろうか。
  しかも、死は一回しか体験できない。何回も体験できるものならば、そのつど自分の振る舞いを改善していって手本の域にまで磨き上げるといったことが可能かもしれないが。おまけに、一度体験したら、それを後で伝えることも無理な話である。
  では、死なんて分からないから、考えるのはよそう、放っておこうということになるのだろうか。そういう考え方もあるようだし、あってもいいとは思う。特に若い人ならそういう気持ちになるのは理解できる。ただ、そういう人に突然死が訪れた時、動転してしまわないかとお節介ながら少々気がかりではある。
  また、しつけなどとは違って、死は純粋に個人的なものだし、死に方も千差万別だし、何も手本など示すことはない。それに自分の死だけで精一杯でとてもそんな余裕はないという意見もあるだろう。もっともである。ただ、しつけの場合、一番効果的なものは説教などではなく、大人の普段の言動であろう。それと同様、特に手本を示そうとしなくても、自分なりに納得のいく死に方をすること自体が知らず知らずのうちに立派な手本になっているということはないだろうか。また、具体的な結論に至らなくても、死について真摯に問い続ける姿勢だけでも十分手本たり得るのではないか。
  死以外にも手本を示すのが難しいこともある。めったに体験しない出来事がそれに当たる。死と同様に慣れることができないからだ。今の日本では例えば強盗に襲われた場合の対処といったところだろうか。だが、銀行やコンビニなどでは万一の場合のマニュアルもあるし、訓練もやっているそうである。大震災も、たとえ体験するとしても、一生に一度だけだろうが、実に様々な防災訓練が大がかりに行なわれていることは日本人なら知らない人はいないだろう。そういう訓練をしたからといって、「本番」で周囲の手本になるように振る舞えるとは限らない。しかし、やらないよりはずっとましであろう。死についても同じことが言えないだろうか。
  もっとも、多少の共通点があるからといって、死と強盗・大震災を同列に置くことはできない。後者は正体が分かっているのに対し、前者は不明だからだ。だから防犯・防災訓練のような明確な死の「訓練」は不可能だろう。しかし、私個人は、どのように死を迎えるかということについて考えたり、他人の死から学んだりして心の準備をすることによって、自分の死に方は多少なりとも自分の望む方向に変えられるのではないかと思っている。例えば武士が喜んで名誉の死を遂げたり、宗教者が極楽へ行けることを信じて心安らかに最期の時を迎えたりするさまは、手本にふさわしいと考える人が少なくないだろうが、突然そんなことができるようになるとは考えにくい。やはり普段からの準備があったからではないだろうか。心がけ次第である程度は自分の死に方を決められるのではないか。死に方は生き方に左右される。つまり、死に方の問題は生き方の問題なのだ。
  もちろん、年少者に手本を示せなければ、年長者失格などと批判するつもりはない。そんなことを言う資格は、死の宣告を受けて取り乱しそうな私にはない。これはあくまで努力目標のつもりである。そもそも自分の思い通りに死ねる人などほんの一握りだろう。どんなに充実した日常生活も高い人格も、それにふさわしい死を保証しはしない。例えば突然の事故死や、堪えがたい苦痛の中で死を迎える場合などは、手本となるような死に方ができなくても当然である。
  では、どんな死に方が手本となる死に方なのだろうか。それについては大昔から宗教が一定の答えを出している。私は信仰を勧めるつもりはないけれども、例えば自分は天国へ行けると堅く信じている人は安らかに死ねる確率が高いのだろうと想像する。私は死は正体不明だと書いたが、こういう人にとっては親しいものでさえあるのかもしれない。とはいえ、宗教には狂信のようなものもあるので注意はしたいが。また、近年は医学や心理学をもとにしたいわゆる「死の教育」というものが実践されていて、ドイツなど海外では成果を上げているという。こういったものを勉強して答えを見つけるのも一つの方法だ。ただ、死についての統一見解などがない以上、万人共通の理想的な死に方があるとは思えない。最後は一人一人が選んでいくしかないのだろう。
  私は、死を何とも思わず泰然と命を捨てる戦国武将や軍人の死に方にも憧れる一方、後始末をすっかり済ませ周囲に感謝しつつ穏やかにひっそりと世を去る名もない市井人の死に方もすばらしいと思う。小心者の私にはどちらの死に方もかなり難しそうだ。ただ、できれば、年少者の死に対する不安・恐怖・嫌悪などを募らせるような死に方だけは避けたいものだと思っている。

     2008・2・6


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