戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

あなたの悩みは「悩み」だろうか?

如月ヨーコ

人間というのは、何につけ悩みを作りたがる生き物だと思う。悩みを作っては他者に依存し、救いを求めては精神的主従関係を築いている。このような言い方が語弊を伴い、反感を買うことは承知の上だ。確かに中には手の施しようもない悩みもあるだろう。私が言いたいのは「あなたにとっては大したことはないかもしれないけど、私にとっては重大な悩みなのよ」という類いのものである。

いつだったか、年配のある人に悩みを相談しようとした。自分としては何か突破口を見つけるきっかけになるアドバイスをしてもらおうと思ったのだ。「人間関係がうまくいかなくて・・」と話し始めると、まだ内容に触れてもいないのに、「おまえ、甘いんだよ! そんなことで悩んでるなんて・・・世の中にはもっと大変な人がいっぱいいるんだぞ!」と怒られてしまった。私はその時、ハッとして「そうか、私は甘かったんだ」と一瞬にして自分が見えてしまった。自分の中で、どこか「いたたまれない状況にある私を慰めて、励まして」という気持ちがあったのだろう。けれどその人の一言で、そんなちっぽけな甘えは吹き飛んでしまった。自分の甘えを自覚することで、人間関係がうまくいかないことは、悩みではなくなったのだ。

多くの人は、悩んでいられる程の余裕があるということに気づかず悩み続けている。また余裕があるため、些細なことでも「悩み」にしては騒ぎ立てるのだ。人の好い人は、そのような悩みにも丁寧につき合い、相手のストレスを解消させてあげるのだが、その分、自分のエネルギーを消耗してしまうのだ。このように書くと、血も涙もない人間のように思えるが(実際そうだとしても)、冷静に考えるとこのような関係は、とても正常とは思えない。些細な悩みを深刻な悩みといっしょくたに「悩み」として把握できる程、自分はお人好しではないのだ。「それは悩みじゃないよ」と言ってあげた方が、よっぽど有意義な関係を築ける気がしてならない。要は悩みが解消すればいいはずなのだが、それでもその悩みにしがみついて、認めてもらいたがっていると思えることもある。つまりは悩みを解消することが目的なのではなく、ストレスを発散させることが目的なのだ。「発散させてあげればいいじゃないか?」と思われるだろうが、意地悪な言い方をすれば“ストレス発散の道具”としての相手を求めているに過ぎないのだ。持ちつ持たれつとは言うものの、このような主体性もない依存関係を、友情とよべるのだろうか? 相手を甘やかしてばかりいることは自分を甘やかすことにつながらないのだろうか? しかも不思議なことに、「発散→消耗」の関係は一方的になることが多い。一方が発散し続け、一方が消耗し続けるケースが目につく。

こんなことを続けているなら、人類愛はおろか、隣人愛に目覚めることも危ういのではないか? 自分の痛みにばかり目を向け、「あなたにとっては大したことはないかもしれないけど、私にとっては重大な悩みなのよ」という気持ちを持ったままでは、世間に多種多様に存在する痛みを感じることもできないのではないだろうか。


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp