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目標と執着

荻野誠人

心の向上をめざして努力する場合、たいていの人が「親切な人になろう」とか「短気をなおそう」といった何らかの具体的な目標をもつ。人の心はたいへん広く、漠然としているので、明確な目標を決めて、その一点に努力を集中した方が成果が上がるからである。だから目標は努力を実らせるためになくてはならないものといえるだろう。

だが、この目標も、執着すると逆効果になってしまう。目標達成が何よりも重要となり、達成できない分だけ自分の価値が下がるように感じられる。目標の取消や低い方への変更は許されなくなる。これではまるで目標の奴隷である。若くてまじめな人ほどそういう傾向に陥りやすいようだ。

だが、一番大切なのは目標ではなく、向上すべき自分自身である。大切なのは、目標を達成することではなく、自分がどれだけ努力しているか、自分なりにどれだけ進歩しているか、である。目標を決めるのは、努力をしやすくするためであり、それは一里塚のようなものに過ぎない。だから目標達成に血まなこになったり、目標との差にため息をついたりするばかりではなく、時には自分の現状に目を向けたらどうだろうか。

たとえば、ある人が「人を傷つけるようなことは言わない」という目標をたてて努力したにもかかわらず、先月は十人、今月は八人の人を傷つけてしまったとしよう。もしこの人が、自分は全然目標を達成できないと嘆いているのなら、私はこうはげましたい。確かに今月八人の人を傷つけたというのは、決してほめられたものではないけれども、一生懸命取り組んだのだし、先月と比べれば進歩しているではないか、と。目標にこだわらずに自分を見つめれば、明るい面も見えてきて、新たな元気もわいてくるというものである。

また、目標は自分にあったものを選ぶべきなのだが、それは口で言うほど簡単ではない。なぜなら、そのためにはまず自分をよく知らなければならないからである。もちろん最初から自分をよく知ることなどできない。普通は、努力を続けるうちに徐々に自分が見えてくるものだが、その結果、先に決めた目標が自分にあわないと感じることも当然あるだろう。そういう場合は目標をより適当なものにかえた方がいいと思う。

ところが、目標に執着していると、高い方へかえる場合はともかく、低い方へかえるのは、何か失敗や妥協を意味するような気がして、踏み切れない。ここではすでに目標が本人を支配しているわけで、何のための目標か分からなくなっている。初志貫徹は立派だが、不適当な目標に取り組むのは、成果もあがらず、疲れるだけで、本人のために何とももったいない。安易な妥協では困るが、結果的に自分をより成長させるためなら、目標の変更は別に恥ずかしいことではない。自分が目標の主人なのだから、堂々とやればいいと思う。

仏教では執着をいましめているが、たとえ心を向上させるための目標という明らかに善に属するものであっても、執着すればよい結果は生まれないのである。

(1987・1・27、1990・5・4 改稿)


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