心の未来

向井俊博

 心の奥をのぞくと、どろどろしたものが見える。まさに泥である。経験に感情がまとわりついた記憶が、よどんでいるのだ。それもエゴまる出しの情でくるむことが多いので、光をあてると、総じてきれいではない。
 泥は、心の底に積もっている。汚いものほど下に沈むようだ。掘り下げても、手ごたえがなく、まるで底なし沼だ。

 いつだったか山歩きをしていて、切り立った斜面のくぼみに、湧き水を見たことがある。澄んだ水が、かなりの勢いで湧いていて、小石まじりの、ざらめ糖のような茶色い砂を吹き上げていた。見ていて飽きなかった。
 広大な心の底を探るうちに、ひょんな拍子から、底の泥土に、山で遭遇したのと同じような、清らかな湧き水があるのを知った。舞い上がっているのはどす黒い泥砂ではあったが、水だけはきらきらと輝いていた。

 以来、心の中の湧き水は、どこから来るのか気になった。長年、心の目をこらし続けるうちに、ぼんやりと見えてきたものがある。湧き水の源は、想像を絶する水脈にあるようだ。とてつもなく巨大な心のように見える。
 人が心を持って生まれるというのは、この水脈から地面に、小さな湧き水がぽつんと一つ、湧き出るのだと思っている。その湧き水は、地面に出ると自我に目覚め、すぐさま泥の囲いを作っていく。人の数だけ泥の囲いが出来るので、「俺が」「お前が」の世界が真の世界だと互いに思い込み、水脈から生まれ出たことや、他人と水脈でつながっていることなど、想像すらできなくなる。

 心の源泉たる水脈は、とてつもない過去から、しかも地球を越えた広がりをもって存在し、必要なところにこんこんと湧き続けているように思えてならない。
 その姿には、過去や未来といった片鱗がうかがえない。無理やり理屈をつけるとすれば、「今」だけがあるということになろうか。そもそも時計や物差しがそぐわない世界のようだ。
 そんな巨大な水脈のような心を垣間見るにつけ、それが常に大いなる善の方角へ面(おもて)を向けているのを強く感ずる。宇宙のデザイナーの、強い意志なのだろう。

 人は、いずれ死を迎える。湧き水にたとえれば、「俺が」の泥んこ作業も終わることになる。この時、泥まみれでもいいから、人はみな清らかな水脈から湧き出たことを思い出し、故郷のようなそこへ、回帰していきたいものだ。心の未来は、そこにある。決して、泥土にもぐりこんではならない。

           (2007.5.21)


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