人の業と知恵

荻野誠人

 私の人格は、謙遜でなく今でも大したことはないのだが、成人する前はもっとひどく、大勢の人に迷惑をかけてしまった。しかし、迷惑をかけて、嫌われ、恨まれ、叱られなければ自分は成長のきっかけさえつかめなかっただろう。様々な批判・罵倒・皮肉・叱責が今でも鮮やかに思い出される。私は周囲の強烈な拒否反応を食らって、どうして嫌われるのだろう、なぜ叱られるのだろう、何とかこんな状態を抜けたい、と思ったものだ。私は二十代半ば以降どうにかこうにか普通の人間関係を築けるまでになったのだが、そうなるには、若い頃の周囲との衝突が不可欠だった。どんな無理難題も「はい、はい」と聞いてくれるような環境や、「言わせておけ」とばかりに誰もが人と直接関わろうとしないような環境にいては、性格は変わらない。ありのままの自分を思い知らせてくれる環境が必要なのである。
 だからといって無理矢理衝突させられる方はたまったものではない。私の成長の犠牲になってしまった人達のことを思うと、これを書きながら申し訳ない気持ちで気分が重くなってくる。その人たちはいわば「恩人」でもあるのに。だが、当時の自分は未熟者としてあのように振る舞うより他になかったのではないだろうか。もし、その人達と初めて出会うのが5年後10年後だったらよい友人同士になれたのに、と勝手な空想をすることもある。しかし、かりにそんなことが実現して、その人達と友人になったとしても、今度は別の人達が犠牲になったことだろう。自己弁護めいて心苦しいのだが、人というものは、成長するためには多かれ少なかれ周囲に迷惑をかけ、反発を食らわなければならない存在なのではないかと思う。
 今の私は未成年の人達と接する機会が多い。その中には周囲に迷惑をかけてばかりの嫌われ者もいる。と言っても大半は昔の私よりもましなのだが。特に小学生の場合は、「被害者」たちが問題児と面と向かって喧嘩するだけでなく、私に不満をぶつけてくることも多い。私は、自分のことは棚に上げて、かつての自分を思い出させる問題児には厳しく接するのだが、その子が将来まっとうな大人になる可能性は十分あると思っている。そして自分に向けられた非難の声こそその貴重なきっかけで、そこからよく学ぶべきだとも思っている。そこで当事者の小学生たちと話をする時は、しばしばそういう意味のことを付け加える。ところが迷惑をかけられている方は「ほんとに成長するのかねェ」みたいな顔をして余り信用してくれない。問題児の方も、私の言い方が悪いのか、まじめに聞く気がないのか、妙な笑みを浮かべたりするばかりである。
 こんな調子だが、それでもひょっとすると遠い将来効き目が現れてくるかもしれないと思い、自分の体験から得たささやかな気付きを伝え続けているのである。
 (直接「業」という言葉は使いませんでしたが、「業」を自分ではどうしようもない宿命のようなものと解釈して、この文章を書きました。この解釈は、日本ではよく見かけますが、本場インドにおける「業」とは相当違っているそうです。)

2007・12・21、2008・1・28改稿


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向井