人の業と知恵

向井俊博

 古代インドでは、時間は回帰するもので、人は業を背負って輪廻していくと考えられた。この因果応報のサイクルから逃れようとして「悟り」が求められ、業苦から抜け出た人は「覚者」と呼ばれた。
 時間は回帰しない、古代人の描いたような因果応報もないと信じるにせよ、人が「思い」「行う」限り、それに伴う業そのものは、存在し続けるだろう。人の意識が捉えたものは、決して消えることなく蓄積され続け、潜在意識となって沈潜して行く。
 個人の業は根っこでつながり、膨大な人類のそれへとつながっている。質の悪い業の積み重ねだけは、避けねばならぬ所以だ。

 仏典に、お釈迦様の説法としてこんな逸話が記されている。
 矢を射掛けられた。「痛い」と感ずる。これが第一の矢。凡夫は、この感覚から、憎しみ、恨み、悲しみなど諸々の感情を呼び、泣き叫ぶ。これが第二の矢。覚者は、凡夫と同じように「痛い」と感じて第一の矢を受けるが、射られてもいない第二の矢は決して受けない。一本で終わりとする。
 別の逸話がある。禅僧が弟子を連れて行脚中、川向こうに渡れずにいる美女を見かける。僧はひょいと美女を抱きかかえ、川を渡す。後で弟子達が、女を抱くとは何ごとかと師を難詰する。師は言う。お前らはまだ女を抱いていたのか。わしはとっくに下ろしていたぞと。
 弟子達は、第二の矢を受けたばかりか、抜き捨てることさえ出来ず、凡夫の域にとどまっていたのだ。

 我々は凡夫である。第二の矢を受け続け、生じた傷を記憶として、心の奥の蔵に溜め込んでいく。蔵の中身は、第一の矢よりも、第二の矢によるものの方が、格段に多い。それも欲にまみれた、質の悪いものが圧倒的だ。蔵構えが立派でも、中身は覚者の蔵にはない、第二の矢傷のがらくたがいっぱい。閻魔様もあきれるだろう。

 とかく質の悪い業を量産する第二の矢にどう対処するか、宗教界でも当然課題としてきたようだ。
 キリスト教に告白とか懺悔というシステムがある。これは既に溜め込んだ第二の矢傷を、神父さんが消し去っているように見える。だが告白者の心的負担を軽減しこそすれ、業を消しているわけではあるまい。業には、消しゴムがきかない。未然に防ぐしか方策がない。
 記憶の蔵に溜め込まれた第二の矢傷は、その質が悪いほど、サタンの好餌となる。油断すると無意識層近くのゾーンで、溜め込んだ記憶を材料に、人の想像力を刺激し、更なる悪業を誘う。
 イエスは、この気配を察したら「サタンよ去れ」と、強い意志で命ぜよと教えた。また修業の現場では、そういう思いが動き出したら、「つかまずにぱっと放せ」と教える。
 身近な日本の宗教にも、悪い想念が沸いたら即座に、「業が消えた」と意識すると同時に、業を断てたことに感謝せよと教えるところがある。意識で瞬間放下を促し、第二の矢を防止しているようだ。
 修行で座禅を組む。これも狙いは同じ。第二の矢を受けぬ訓練しているのではなかろうか。

 人生は、激しく降り注ぐ矢雨の中を歩み行くようなものだ。矢を受けたら、第二の矢をぱっとかわす。これ、業苦から逃れる知恵だろう。
 こうして個人も人類も、少しでも覚者に近づいていきたいものだ。  

            (2008.2.10)


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