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言葉と私

荻野誠人

私は、おしゃべりを皆と楽しむのが苦手であった。用事のあるときはいいのだが、ただ何となく喫茶店に入ったときなどはどうも居心地が悪い。とりとめのない、何の結論も出ない、本音を言っているとも思えないおしゃべりを聞いていると次第にいらいらしてきて、おしゃべりの主たちに対する軽蔑の念がむらむらとわいてくるのである。こいつらはなんて程度の低いひま人なんだ!----というわけである。当然それは表情や話し方に出ただろうから、回りをずいぶん不愉快にしていたのだと思う。

このようになってしまう原因の一つは私の未熟な人格であった。私は高慢で、人とうちとけようとせず、他人を楽しませようという思いやりにも欠けていた。

だが、数年前、日本語を勉強してみることになったのがきっかけで、思いがけず別の原因に気づいたのである。

なぜか私の言語観というものは、一般の日本人とはかなり違っているらしいのだ。たとえば、普通の日本人と比べると私は言葉をとても大切なものだと考えているようである。おそらくそれが原因で、言葉はできるだけ正確に明瞭に使わなければならない、また、言葉は必ず何らかの目的のために使わなければならず、いったん口にしたことは守らなければならない、といった考え方をしているのである。このような言語観はどちらかというと西欧のものに近いのだという。

一方、普通の日本人にとっては、言葉はそれほど大切なものではないようだ。日本人は互いの心を読み取ることにたけ、それでコミュニケーションをするといわれているから、相対的に言葉の重要性が低いのだろう。従って言葉をそれほど厳密に使わなくてもさしつかえないわけだ。

そして、日本人がおしゃべりするのは何らかの内容を伝えるためとは限らない。では、何のためにするのかというと、温かい人間関係をつくり、ストレスを解消するためなのだそうだ。極端なことを言えば、内容はどうでもいい。音声が交換されてさえいれば、それでもうお互いに仲良くなれ、気分が良くなるのである。

以上のような見解にふれたとき、目からうろこが落ちる思いがしたのである。私が雑談の中にいて、居心地が悪かったのは当然であった。言葉に対する価値観が違っていたのである。だが、私はそれを知らず、周囲を馬鹿にしていたのだ----。

今では雑談に興じる友人を冷やかに見下すようなことはない。それどころか、私の方から参加することもあるくらいだ。おかげで、性格がいくらか変わったこともあるが、昔よりは人との話が楽しくなった。相変わらず愛想のいい方ではないが、たぶん昔ほどには他人に不快な印象を与えていないと思う。私自身の言語観は変わっていないが、言語観というものが一つではないことを知って、他を理解しようという態度が多少なりとも身についたのではないかと思う。普通の日本人のおしゃべりにも確かに良い点があると今では思っている。

もし、日本語を勉強しなかったら、たとえ性格が変わった今でも、よもやま話を楽しむ皆の仲間入りはうまくできなかったかもしれない。私は日本語に関する本を読んで人間関係が良くなるとは予想もしていなかったので、勉強も馬鹿にできないなとつくづく思ったものである。

ところで、まだ一つ謎が残っている。それは、なぜ私は純粋な日本人なのに、日本人離れした言語観をもつようになったのか、ということである。だが、残念ながらその問いにはまだ答える用意ができていない。また勉強して、いずれ別の作品で述べられればと思う。

(1990・5・4)

参考文献
『タテ社会の人間関係』中根千枝。講談社現代新書。1981年。
『ことばと文化』鈴木孝夫。岩波新書。1986年。

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