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氷が溶けたら?

河合 駿

 信州、信濃の国は一年のうちの半分ほどは雪と氷に覆われます。夏の間、あれほど多くの登山者を受け入れてきたアルプス連邦の山々も、燃えるような紅葉期を終えると、もはや人間が立ち入ることを拒むかのように、静かに長い冬の眠りにつきます。寒冷地といわれる信州の中で、比較的雪が少なく好天の続く松本平野では、海抜五百メートルの高さと放射冷却の影響で、冬季には真冬日が幾日も続きます。「今日はシミルなぁ!7度だって?」。 「今日は少しあったかいと思ったら4度だよ!」。 いずれも零下何度のことで、信州の人たちはこのような会話を挨拶代わりにしています。
 ここは長野県の某小学校。四年生の教室の窓から見える一面の雪景色は、まるで墨絵のような世界です。理科の時間。テストが行われました。担任の女の先生は答案を自宅に持ち帰り、子供たちのために一所懸命採点をしていましたが、ふと、ある女の子の答案のところで手が止まりました。問題は「氷が溶けたら何になる?」でした。女の子は解答欄に「春になる!」と書いていたのです。 耐えに耐え抜いて過ごす長い冬。だれの心にも春は本当に待ち遠しいものです。やがて、四月も中ごろになると信州の春は一度にやってきます。青黒かった山々は、たちまちのうちに緑の屏風に早変わり。梅や桜、桃、あんず、コブシやモクレン、ライラックなどの花が一斉に咲きみだれます。まさに百花繚乱、春爛漫にむかって信州の大自然は、歓喜の声をあげて姿を変えていきます。先生は思わずニッコリ、その答えにマルを付けました。そして女の子の名前のところに、おまけの三重マルを付けてあげたのです。春を待つ女の子の心が、ごく素直に何のためらいもなく答えを引き出してしまったのでしょう。また先生も、女の子の持つ感性を大切に受けとめて、何とおおらかで機智に富んだ採点をしたものでしょうか。
 この話は、かつて長野県に住んでいたころ、尊敬する恩師からうかがったものです。もしこのとき先生が、答えに×をつけていたとしたら、女の子の感性はその後どのように育くまれていったでしょう。
 あれからもう二十余年、女の子はいまや、きっといいお母さんになっているに違いありません。学校では一つの問題に対して正解は一つと学びます。一方、家庭や社会生活では色々な問題にであいますが、答えがいくつも出てくるときや全く出ないときなど、思い迷うことが多くあります。このような時「それも正解ですよ!」と認めてくださった先生の、必ずやってくる春のような温かい心を、私はいつも思い出すのです。


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