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心の持ち方について

斉藤真知子

 私は若い頃、自分自身の不器量に悩み、非常に陰の思考の持ち主であった。どんどん自分というものに自信を失い、どうせ私は美人ではないのだから、男の子に対して恋愛感情を持つのはよそうと考えたり、時には自分と少し仲良くなった人を、別の女の子が好きだと聞くと、その人とその女の子の仲を取りもとうとしたりして、要らぬ誤解を生んだりもした。
 その後、男の人というものが良く分かっていないままに「おれの助言者になって欲しい」というような言葉を信じて結婚してからは、相手から否定的な扱いを受けるようになっていった。長く一緒に暮らしている内に分かったのは、彼は自分の手足となって働く分身が必要だっただけということだった。分身だから、同じような考えを持たないと不機嫌になり、思う通りに行動しないと怒り、暴力を振るってまで自分の正当性を主張するのだった。私が自分の意見を言おうものなら、「誰に食わして貰っていると思っているんだ!」という罵声が返ってくるのだった。その反対に、子供を背負って重い買い物の荷物を持って歩いている姿などを見ると、とても機嫌が良く、よしよしというような感じなのだった。
 最初の頃、私は本当にそんな価値の無い人間だろうか。私の方に問題があってこのような扱いを受けるのだろうかと一人ずっと悩んでいた。けれど、いや決してそんなことは無い。私は存在価値の有る、ちゃんとした人間だと考えるようになった。
 それは上の子が五才、下の子が一才三か月で引っ越しをした時のことがきっかけだった。
 役所への届けから子供の世話まで何から何まで私一人でした。夫の機嫌を損ねないように神経を使いながらの毎日で、ひどく体調を崩して病院へ行くと、妊娠していることが分かった。「おろせ、おろせ。誰でもしていることだ」と言われ、体調は悪く、子供は小さく、実家は遠く、切羽詰まって一人でおろす決意をした。入院の手続きも、家や子供の面倒も一人で手配して、退院したかと思うと、毎日激しい出血があって貧血が続いた。それでも、することは色々とあり、毎日必死の思いで過ごしていた。その挙げ句の果てに言われたのが
 「相手が出来ないんなら、飼っている意味がないじゃないか」
 それは女性として人間として聞くに堪えない言葉であった。決して許してはならない言葉でもあった。この時私ははっきりと自分を存在価値のある人間だと自分自身に言い切った。
 私はとても自尊心が強かったのではないだろうか。それは心の底の方に眠っていて、若い私はそれをよく分かっていなかった節があると今思う。
 私の全てを支配しようとする相手に我慢出来なくて「乞食をしてでもこの家を出たい」と上の子に言うと、その子も泣いて、「お父さんとお母さんと僕と慎也の四人でここにいれないの」と言った。その時、子供を泣かすことは出来ない。泣くんなら大人の私が泣くしかない、この子たちを育て自立させていくのが私の役目、自立するまでこの破れかけた家庭という袋を繕い繕い、この袋の中で育てていこうと決心したのだった。
 子供を二人生み育てたことも、この私に別の自信を持たせてくれたのだった。
 幼子が、まだよく分からないながらも母親を全面的に信頼し、頼り甘えるさまは、母になった者の心をとても強くさせるものが有る。
 母として個性の強い二人の男の子を育てていく途上で色々な場面に出会い、苦しみながらもそれに対処していく中で、何時の間にか以前と違った前向きの逞しさを身に付けるようになっていた。
 上の子はがき大将的なところがあり、卓球となると先頭に立って人を引っ張っていく力の持ち主で、良くも悪くも卓球を一番の目的に中学高校へ通ったようなものだった。下の子は一本気で、自分の世界のはっきりある性格で、それが災いしたのか、同級生からいじめっ子扱いされたり、教師から目の敵にされたりした。
 次男が小5で、いじめをするということで学校で名前が出た時、毎日夜中まで二人で話をして、時には二人で泣いた事もあった。その時、私の心に有ったのは、この世の中の全ての人がこの子を信じないとしても、私は最後の最後までこの子を信じ通すという強い思いだった。子供の心の中へ入っていって、その風景を共に見て助言出来るのは私しか居ないのだと思っていた。確かに時々うそをついたりとか悪い点もある子供だったが、慎也という人間の基本的な人格を100%信じて話をしていた。
 次男が中学の時には、やはりいじめをするとの訴えで、教師5人に翌日までに反省文と謝罪文を書けと迫られ、「自分は何も悪くない」と書いていかなかったら、「お前よく学校へ来れるな」と一人の教師に言われ、悔し涙を流して私に打ち明けた。私は本人の意思を確認して校長先生に会って、教師五人対生徒一人というやり方と暴言とに抗議した。すると、「多少行き違いもあったかもしれないが、生徒のためを思ってしたことなので。お子さんは元気のいい子で気に入っている」等と話をされ、「お母さん、心配ありませんよ」などと言われてしまった。その時からだ、学校不信教師不信に陥ったのは。
 色々な事件が起こるたびに、子供の心を正確につかむためにまずは落ち着いて話を聞くことをどんな時にも心がけた。そういう時、子供というものは自分の気持ちを上手に説明出来るわけではないので、一つ一つ引き出して水を向けて、また時には別の話もしながら、色々な話の中から気持ちを汲み取っていくという作業は欠かすことの出来ないものだった。子供の信頼をうるのに何が一番必要か。それは忍耐である。忍耐を持って聞くということだ。それに的確な助言、この二つを必要に応じて頭を使って出していけば、信頼を得ることはある程度出来る。
 日々の子育ての積み重ねの中で、子供が段々と私を支える力をつけていき、自分の意志で生きていこうとする姿を見るようになると、それは限りなく私を勇気づけた。
 例えば、次男にいじめられたという同級生とその両親が家に抗議に来たことがあった。 実はその頃私は精神状態が悪化していて、電話でまくし立てられただけで心臓が口から飛び出しそうになるほどだった。私がその席上でしゃべれば涙が出ることは分かっていたので、高校2年だった長男に同席を頼んだ。長男は相手の抗議に対して
 「弟は強い奴には向かっていっても、弱い奴をいじめるっていうことはしないはずだ。おれがそう教えてきたから」
 と弁護して、弟の立場の正当性をきちんと主張してくれた。私はこのことで今でも長男に深く感謝している。
 子供を通して色々な人や学校という場にもかかわりをもった。若い頃には自分の感性と違う人たちとの交流は苦手だったが、人間として互いに大切にし合うことを学んだ。また、人前で何かをしたり、話をしたり、取り仕切ったりといったことも大の苦手だったのに、学校へ行くと子供たちが親しげに笑いかけてくれることがうれしくて色々としてきた。
 長男が小学校へ入学した時、親としてお世話になる学校に協力出来ることはするべきだと思っていたので、すぐに役員になった。それを家で言ったとたん「いらんことするな!」という怒声が返ってきた。「お前は家の中でおれと子供の世話だけしてりゃいいんだ」という言葉と共に・・・。「パチンコ屋で会った今年小学校に子供が入学したっていう知り合いの母親が、役員なんて上手く逃げてりゃ誰かがやるよと言ってたぞ。お前はバカだ」とも言われた。これもやはり忘れることの出来ない悲しいことである。
 さて、夫は父親としてはどんな人だったのだろうか。長男が小学校高学年だった時に、学校で煙草の害についての学習があり、家に帰って来てその話をした時のことだ。息子は父親に「食事の間だけでも煙草を辞めて欲しい」と頼んだ。すると「この家は俺が一番えらいんだから、イヤならお前達が出て行け」という返事が返ってきた。それ以後長男は父親が家にいる時は、食事は別室へ持って行ってするようになってしまい、私は何も言うことが出来ないまま、次男も同じようになっていった。
 私にとって唯一の救いは二人とも父親がいない時には茶の間で私のそばで楽しくおしゃべりをしながら食事してくれたことである。長男は卓球の話を、次男は学校のことや自分の興味のある話などをしながら・・・。
 私は結婚当初からお金のことを言われ続け、いつか自分の手で自分の生活するお金は稼ぎ出すつもりでいたので、一度だけ「今は子供が小さいから出来ないけれど、いつか必ず仕事を見つけて働く」と言ったことがあった。その時言われた言葉は「お前は甘い。働いて金を稼ぐっていうことが、どれほど大変なことかお前には分かっていない。絵に描いた餅は食えん!」というものだった。私は、自分の尊厳を守るためには、たとえどんな思いをしてでも働いていこうという思いを、色々言われるたびに固めていった。
 最初にしたのがヤクルトの配達だった。これは長男が1才8ヶ月から3才2ヶ月まで、次男を妊娠して自転車に乗れなくなるまで続けた。次男が2才になり、保育所に預けられるようになって配達を再開した。この時は範囲が広がったので、結婚後すぐに取ってあった原付バイクの免許を生かして、知り合いから中古のミニバイクを譲ってもらって、2年7ヶ月続けた。配達は主に朝だったので、市の主催する簿記とワープロの講座を朝10時から夕方4時まで受けに行った。これは内緒で行けたので本当に助かった。
 その講座が始まって2、3日して次男からハシカをもらって、頭のてっぺんから足の先までまっ赤なブツブツにおおわれ、高熱に苦しめられる一週間を過ごすことになった。その時「ハシカにかかったようなので、一週間休みを取りたいけれど、きっと遅れは取り戻すから続けさせてください」と主宰者側の方へお願いした。その方は「受講を申し込まれた方がけっこう多くて、待っておられる方もいるので、譲られてはどうですか」という風に言われたのだが、ここで引き下がったら、私の生きる道は閉ざされるとばかりに必死になってお願いした。あれが私の自立の第一歩だったのかもしれない。
 何とかハシカもやり過ごし、日商簿記の3級を取り、さて正式な仕事を見つけようとハローワークへ行くと、どの仕事も普通免許要という条件がついており、これは免許を取るしかないと決心した。
 実は21才頃に一度免許を取ろうとして教習所へ行き、2段階まで行ったのだが、その時むごい死亡事故現場を見てしまい、夢にうなされて、とうとうあきらめたという過去があったのだった。そのように若い頃の私はもろい人間だった。が、35才となり、自立していこうとしていた私にはもう後がなかった。生きるために、常に前に進むしかない。これが私を動かしていた。
 35才にしては早いと言われながら、最少のお金で免許を取り、まず保険の勧誘の仕事につくことになった。これはお金の舞う世界で、私には合わなかったが、一年きっかり働き、お金のこと、地域のこと、職場で生きていくということを知るのに役立った。
 保険会社を辞めると同時に事務の仕事を見つけ、切れ目なく仕事をすることが出来た。その後も現在まで3回転職せざるを得なかったが、2番目の会社の奥さんが同じ年齢で子供も男の子2人という共通点もあり、簿記2級の講習会へ行くことを勧めて下さり、おかげさまでその資格も取れたのだった。
 そのように目一杯頑張って、買い物もして家に帰っても、玄関の上がり口で目を三角にして仁王立ちした人から「今まで何してたんだ。そんなはした金のためになんでおれが腹すかして我慢しなくちゃならないんだ」と怒鳴られる日々であった。
 私はこれまで、今はこの状態でも、いずれ必ず良い方向に進むはずと信じていた。そこから行動力も生まれてきた。
 私の目線はいつも「今」を見つつ未来を見ていた。現状で自分自身の出来ることは何なのか、そしてそれを未来へどのように繋げていこうとしているのか。そんなことをいつしか苦しい中で考えていたように思う。
 現在私は三年前に結婚した長男と二年前に家を建て、そこで二世帯住宅の一階に一人で暮らしている。仕事も小さな会社の事務員兼雑用係をして八年目になる。たぶんここが最後の仕事場となることだろう。今の仕事を私はとても気に入っている。それなりに努力してきた成果があったと自分では思っている。この仕事を大切にしながら、これから先私の身の回りにいるすべての子供達のために、私なりに出来ることを見つけて関わっていきたい。生んで育て上げることの出来なかった子のためにも頑張りたいと思っている。
 自分自身のはっきりとした意志、これこそが自分を望む世界へ導く大きな力であると思う。昔から苦しさがバネとなり・・・とよく言われるけれど、私の場合もやはりその通りで、自信の無さなど吹き飛んでいくほどの苦しさを経験したからこそ、今の自分自身の力を信じて生きていこうとしている私があると痛感する。
 ここまで生きてきて、心の持ち方は自分自身の人生を決定するものだと言えると思う。これからも、常に、自分は何を望みどうしたいのか、どうなりたいのか、それを問いかけ続けて、未来を見つめて生き続けようと思っている。


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