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幸福の表現

荻野誠人

 私は以前、箱に入れたまま忘れていた通帳に50万円残っているのを発見して大喜びしたという文章を公表したことがある。すると、その日の生活もままならない人が読んだら、どんな気持ちになるか考えたことがあるんですか。悲しくなりますという趣旨の感想をもらった。
  その感想をきっかけとして考えたことをこの文章で書いてみたい。ただし、以下で述べる私と異なる価値観は、私が自由に想像してこしらえたもので、その方のものではない。その方に対しては、きっかけをいただいたことを感謝したい。
  人は幸福を感じると、それを表現したくなるものだ。試合に勝った選手が飛び跳ねたりして、全身で喜びを表しているのがいい例である。幸福は文字でも表される。万葉集にみられるように大昔から日本人のやってきたことである。
  今も多くの人々が、健康・愛情・合格・就職・結婚・昇進・出産などを経験して幸せだと率直に述べた文章を無数に書き続けている。そこにはボーナスが上がって嬉しいとか宝くじに当たって夢のようだとかいうお金にまつわる文章も当然入ってくる。それは別に人の気持ちを逆撫でしようとしているわけでもないし、特定の誰かに見せつけようとするものでもない。純粋に自分の喜びを表現しているのみである。
  こういう自然な表現を他人が批判するもっともな理由はあるのだろうか。結婚できて大喜びという文章に対して、結婚できない人のことを考えたことがあるんですか、と批判するのなら、人はどう自分の喜びを表せばいいのだろう。もしそういう行為が広まれば、ずいぶんと窮屈な世の中になってしまうことだろう。
  もちろん他人に対する配慮は必要だ。例えば、いくら自分の子供が可愛いからといって、年賀状に子供の写真を印刷して、子供がほしいのに授からない家庭に送る、といった行為はいただけない。しかし、子供をもつことを喜ぶ随筆や短歌を雑誌やネット上に発表したからといって批判されるいわれはない。
  不幸な人のことを考えて、自分の幸福については語らない、という考え方も一つの立派な価値観だし、そういうことが実行できるのはすごい。ただ、それはその人個人の価値観で、万人がもつべきものとまでは言えないだろう。
  では、幸福とは言えない人は、他人が幸福について語っている文章等をどう受け止めればいいのだろうか。読んで自分のことのように嬉しかったという人は、私など足元にも及ばない優れた人なので、教えを乞いたいほどだ。一方、読んで傷ついてしまった人への特効薬のようなものは、残念ながら思い浮かばない。やはりその痛みに堪えて沈黙を守るのが一番いい方法ではないだろうか。それが周囲のためだけではなく、結局は本人を成長させることにつながると思うのだが、いかがだろうか。

2010・6・4

 


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