戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

子は親に如かず

堀口賢一

「お前が一ばん尊敬している人物は誰か」と聞かれたことがある。

「さあ。」私は返事に困ってしまう。終戦前なら楠木正成、新田義貞または乃木大将と答えただろうが、これらの歴史上の人物はすべて天皇制軍国主義教育下において、忠君愛国の亀鑑として讃美された人びとであり、主権在民の現在においてはすでに色褪せている。といって現在の政治家、実業家にも尊敬に価する人物はなかなか見当たらない。

「そうだなあ、強いていえば親父かな」と私は答えた。そして「そうそう、もう一人いる。それは小学校の先生だよ」とつけ加えた。

私の小学校高等科一、二年を担任された先生が、私たちが卒業を間近に控えたある日、次のように話された。

「軍隊で元帥、大将といえば最も偉い人と思われ、二等兵といえば最下級の者と見なされている。しかし二等兵でも国を思う心が元帥、大将より厚かったら、偉くはないが立派な人間、軍人といえよう。また総理大臣といえば日本では一ばん偉い人、百姓、土工といえば社会の一ばん下積みと見られているが、この人たちが親を尊敬して孝養をつくし、人を愛するとすれば、総理大臣より立派な人間といえるだろう。偉い人間を志す者はゴマンといる。しかし立派な人間になろうとする者は少ない。君たちは偉い人間になろうとする前に立派な人間になろうと心掛けて欲しい。富士の頂きを仰いで讃美するよりも、広大な裾野に思いを馳せて欲しい。」

今にして思えば、この先生こそ立派な人間であり、私などその足もとにも及ばない不肖の教え子であった。


親父は、五反(五十アール)百姓の小作人で、年貢を納めると残る米が少なく、どうしても出稼ぎで補わねばならないほどの貧乏だった。だが、「貧乏は自慢にはならないが、恥ずかしいことではない。悪いことをして儲けるよりは遙かにましだ」と口ぐせのように言っていた。たまたま土木請負師の帳方に望まれて半年程勤めたが、人足の水増しをやるのを知り「どんな人でも誤魔化して金を儲けるのはよくない」と一般人夫の二割増しの給金を断って、辞めたと母が言っていた。

その親父が、私が小学校を卒業して土工として出稼ぎに出るときこう言った。

「お前もこれからは多くの人たちと付き合っていかなければならんが、人と人との関係は鏡に向かっているのと同じだ。自分が笑えば鏡の中の顔も笑う。怒れば鏡も怒る。自分で怒っていながら、相手に笑ってくれ、など通用しない。」

私もなるほどと思った。それは常に相手の立場に立って思いやりの心で付き合うということだが、私にはなかなかそのようなことはできなかった。

私が数え十九才の元日、酒好きの親父は一杯やりながら私に言った。

「お前、与謝野鉄幹の『人を恋うる歌』知ってるか。」

「ああ、知っている。歌ってみようか。--妻を娶らば才長けて、見目麗しく、情けある。友を択ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱--」

歌い終わるのを待って親父は言った。

「お前は鉄幹をどう思う。」

「どう思うって、『廟溝鎮の敵の陣』という爆弾三勇士の歌を作った偉い先生だと思うよ。」

「そうか、俺はそう思わんよ。」

元旦早々から説教かと思ったが黙っていた。

「そりゃあ妻は才があって見目がよいに越したことはないが、そうでなくても家庭円満で一家揃って楽しく暮らせる方が、どれくらいよいか分からないよ」と言ってお袋の方をちらりと見た。お袋は苦笑していた。子の私が見ても決して美人ではないが、私は今の家庭に満足していた。

「問題は次の『友を択ばば』だよ。鉄幹は六分の侠気と四分の熱をもった友を択べ、そして自分は択ぶと言っているが、鉄幹自身がそのような友であり、そのような友になろうと努力したかというと疑わしい。これはいつかお前に言ったように、鏡と同じだよ。よい友を択ぶ前に自分自身がよい友となるよう心掛け、努力しなければならないと俺は思うよ。」

たしかに親父の言う通りだと思った。


昭和十七年十二月一日に私は現役兵として高田三十連隊に入営することになり、その前夜、一家揃って祝いの膳についた。

「出世しようとか、金を残そうとか思わなかったら、人間くらい楽しいものはないよ」と、その時親父は独り言のように言った。

高田は単なる集結地に過ぎず、一週間後、高田を出発、下関に到り、関釜連絡船に乗って中国山西省に向かうこととなった。

私は甲板に登った。日本が次第に遠ざかっていく。船は白く長い帯のような航跡を残しつつ、一路釜山へ。その白い帯の上に親父の顔が浮かんでくるような気がした。あの時は説教と思った親父の言葉一つ一つが懐かしく、親父に一歩でも近づきたいと思った。

中国山西省五台県、仏教の聖地として名高い台懐鎮、それが私たちの駐屯地であった。

幾多の戦友、先輩の犠牲の中で、私はさしたる怪我も病気もせず終戦を迎えた。

夢にも考えられなかった日本の敗戦だが、これで日本へ親父やお袋、弟妹の待つ故郷に帰れると思った。ところが山西省の特殊事情により残留を余儀なくされてしまった。

やがて国共内戦の渦中に巻き込まれ、多くの日本残留者の犠牲を出しながら戦い敗れて中国人民解放軍の捕虜となった。

捕虜となってからの五年五か月、中国の民衆との交流によって、大東亜共栄圏などがすべて欺瞞であり、大陸進出ではなく侵略であったことを知った。だが、中国での生活の中で最も大きな収穫は、親父の言葉通り、出世にこだわり、金銭に執着することが如何に空しいものであるかを知りえたことであった。戦場で戦友と生死を共にする中では出世も金銭も考えられない。また捕虜となってからは、一円の金も支給されなかったが、それでもさして不自由は感じなかった。窮すれば通ずとはよく言ったものだと思った。

帰国を許されたのは渡華十二年後の昭和二十九年九月の末のことであった。


こうして私は家族の待つなつかしいわが家に帰ってきた。

終戦後九年間は音信不通。昭和二十三年に中風で倒れ、回復はしたものの、すっかり気弱になった親父は私を諦めて、妹に婿を迎えて家を継がせようと言ったそうだが、親父に逆らったことのないお袋もそれだけは絶対反対と、望まれるままに妹を嫁がせ、私の生還を信じて入隊以来十二年、私の写真に陰膳を一日も欠かさず供えて無事生還を祈っていたという。

親父は私の帰国を涙を流して喜んでくれた。五十五才になったばかりだったが、中風で倒れてようやく回復したあととはいえ、髪はすっかり白く、七十の老爺の如くであった。私が妻を迎え、孫が生まれると「これで俺も本当のおじいさんになれた」と喜んで、毎日のようにおぶっていたが、孫の一才の誕生日が過ぎて間もなく中風を再発、お袋や私たち兄妹四人と孫に見守られながら、静かに息を引き取った。五十七才であった。その静かな死に顔を見て、親父は幸せだったんだ、と思った。

清貧とは親父のためにあるような言葉だった。親父は、小学校の先生の言われた、偉くはないが立派な人間だったと思う。出世や金銭に拘泥せず、人にはかげひなたなく接していた。だから死を惜しむ人はいても、悪く言う人は一人もいなかった。

お袋も立派だったと思う。親父が生涯人に後ろ指をさされることもなく清貧を通せたのもお袋の支えがあってこそであろう。お袋も貧乏を全然苦にせず、口にも出さなかった。

親父の弔いおさめといわれる三十三回忌は三年前、今年はお袋の二十五回忌。私は親父より十四年、お袋より二年長く生きている。この際私の七十一年の今日までを振り返って総括したいと思う。

「子は親に如かず」のたとえ通り、如何に努力しても(余り努力もしなかったが)、到底親父には及ばない。金銭にこだわらず、出世に執着しないことは中国の十二年間で身をもって知ることができたが、人と人との関係は鏡に向かっているのと同じだということはなかなか実行できない。生来短気な私は相手の立場など考えず、つい口角泡を飛ばして激論し罵倒することがある。年を取るに従い、逐次直ってきたといっても、なかなか相手の立場を考えるには到っていない。口論した後、「しまった、悪いことをした」と反省は一応するのだが、次の時には先の反省など忘れて同じ過ちを繰り返してしまう。

また、友を択ぶより友となることだが、これは更にむずかしい。何かあると「それはあいつが悪いからだ。俺の責任ではない」とすぐ他人に転嫁してしまう。これでは到底よい友にはなれない。西郷隆盛の詩「過ちを等しくせばこれを己に負い、功を同じくせばこれを人に売る」を座右の銘としていてもなかなか実行できない。 先生の言われた立派な人間にもなれなかったし、親父の三つの言葉のうち、一つだけ何とか悟り得た程度で、親父の三分の一の伜でしかなかったと近頃しみじみ思っている。

あと何年生きられるか知れないが、一歩でも半歩でも親父に近づきたいと思っている今日この頃である。


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp