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嫌う気持ちに寛大に

荻野誠人

 この文章をお読みの方、嫌いな食べものはあるでしょうか。もしニンジンが嫌いだとしたら、それを恥ずかしい気持ちや醜い気持ちだと思うでしょうか。まず思いませんね。もしニンジンを踏みつぶしたり、放り投げたりしたら、それは恥ずかしい行為ではあるでしょうが。

 では、人を嫌うことはどうでしょうか・・・。

 その気持ちを恥ずかしい、醜い、などと断定している意見があるようです。しかし、嫌う気持ち自体は恥ではありません。そう私は思います。嫌悪というのは、自然にわく気持ちです。しかも、好きという気持ちと並んで、人の根源的な気持ちで、おそらく自己防衛のためにも必要な、大切なものでしょう。それを恥ずかしい、醜いと否定して、人が存在できるのかどうか。できたとしても、心が健康でいられるかどうか。

 時には何の落ち度もないのに、人から理不尽な目にあわされることも起こります。そういう場合に相手に嫌悪の気持ちを抱くのは、むしろ自然なこととさえ言えます。また、不正を嫌う、などという気持ちなら、周囲から好ましいと評価されることもあるでしょう。

 一方、嫌悪が誤解や心の狭さから生まれることもあります。この場合は、誤解や心の狭さの方が問題なのであって、嫌いという気持ち自体が悪いわけではありません。誤解を解き、心の狭さを改善するのが課題であり、それを達成すれば、自然に嫌う気持ちは消えてしまいます。逆にその気持ちにばかりこだわって、他が見えなければ、ものごとはいい方へ進まないでしょう。

 何かを、誰かを嫌っているというのは不愉快な状態です。嫌いな食べ物ばかり出されたら、ヒステリーになるかもしれません。嫌う気持ちが湧かない方がいいに決まっています。しかし、不愉快になるからといって、その気持ちがそのまま恥ずかしく、醜いものであるわけではないでしょう。ちょうど痛みが不愉快なものであっても、恥ずかしいものではないように。

 恥ずかしく、醜いものがあるとすれば、それは、嫌う相手を、その感情のままに攻撃する行為ではないでしょうか。たとえ相手が明らかな悪人で、自分の方に大義名分があっても、それはやはりいいことではないでしょう。聖人君子ではないのですから、踏みとどまれないような場合もあるとは思いますが・・・。嫌悪を相手に向かって表すだけでも、すでに一種の攻撃になるでしょう。そして、嫌悪を原動力としたあからさまな攻撃となりますと、多過ぎて具体例を挙げきれないほどです。そういうことをせず、我慢したり、上手に発散したり、理性的に人間関係を改善していこうとするような人は、嫌う気持ちを抱いていても立派な人ではないでしょうか。少なくとも私の価値観ではそうなります。

 嫌う気持ちが湧いたら、即座にそれを恥ずかしい、醜いと否定する態度。それは決して心の健康のためにはならないと思うのです。自分に対してもっと寛大でもいいのではないでしょうか。

2012・11・28


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