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禁句

荻野誠人

しょっちゅう耳にするが、私自身はなるべく言わないようにしている言い回しがある。それは、「○○の気持ちは××には分からない」である。○○、××のところには実に色々な言葉がはいる。たとえば、僕と君、男と女、年寄りと若者、親と子、日本人と外国人、貧乏人と金持ち、病人と健康な人、などである。

私はこの言い回しが間違っているから使わないのではない。この言い回しは正しい。他人の気持ちがそっくりそのまま分かる人は一人もいないのだ。たとえば、いくら親でも、試験に落ちたわが子の悲しみをそのまま感じることはできない。せいぜい自分が不合格になったときのことを思い出して、想像するしかないだろう。その経験さえもない人は他のことで失敗した記憶を頼りにするぐらいがいいところだろう。だが、どれほど想像しても、すっかり色あせた悲しみがよみがえるだけで、しかもそれがわが子の悲しみと同じ性質のものかどうかは分かりようがない。脳を共有でもしていない限り、他人の気持ちをそのまま感じることは不可能なのである。

それを事実としてわきまえておくのはよいことだと思う。自分は他人の気持ちがよく分かるなどと思い込んでいる方がよほど危険である。そう思う人はその無神経な態度で他人の気持ちを逆なでするかもしれない。むしろ自分の分かることなどほんのわずかなのだと謙虚な態度をとる方が失敗は少ないだろう。

ではなぜ事実であるのに、私は「○○の気持ちは××には分からない」と言わないのか。それは、その言い回しが、単に客観的に事実を述べようとするのではなく、相手との心のつながりを拒否しようとする、いわば最後通告として使われているからである。そこにはお互いに理解し合おうという姿勢は全くない。そして、そう言われれば、確かに事実はその通りなのだから、相手は黙り込むよりほかはないのである。

「○○の気持ちは××には分からない」と口にする人は、自分の殻に閉じこもって自分を守ろうとしているのである。その人の心にはときに、お前のように低級な人間には分かりっこないという傲慢さが、ときに、どうせ俺みたいな駄目な人間のことなど分かってくれるはずがないという卑屈さが潜んでいる。

もちろん、このように他人との心のつながりを頭から、しかも感情的に拒否して、よい人間関係をつくれるはずがない。

なるほど、私たちは人の気持ちを完全に理解することはできない。しかし、人の気持ちを理解しようと努力することは全くの無駄であろうか。試験に落ちた人の悲しみを理解しようとあれこれ想像をめぐらせば、何もしないときより、その人の悲しみに近づけるのは明らかであろう。そのような努力が積み重なれば、次第に他人の心をより深く理解できるようになるだろう。やはりよい人間関係の基礎は、不十分ながらも、相手の気持ちを何とか理解しよう、そして自分の気持ちも理解してもらおうと努力するところにあるのではないだろうか。

その努力をまっこうから否定し、相手を強く突き放すのが「○○の気持ちは××には分からない」である。だから私はこの言い回しを禁句にしているのである。

(1989・8・17)


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