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善悪の均衡

荻野誠人

  この世に「善」「悪」という言葉のない言語があるだろうか。そういう言葉を使わない民族があるだろうか。私の知っている限りでは、ない。
 この言葉が昨日今日作られたものではないのは、古代の宗教などを見れば明らかだろう。「善」「悪」が大昔から使われてきたのは、人がこの両方をもち続けてきたからだ。もし人が善のみ、あるいは悪のみの存在だったら、そもそも「善」「悪」という言葉は生まれなかっただろう。
 「善」と「悪」は反対語同士だが、そうであるのは両者の力が等しいからではないか。もしどちらかが圧倒的に強ければ、「善悪」という熟語も出来なかったはずだ。私たちの先祖は、長い時間をかけて無数の人間を観察し、人には同じ力の相反する二つの傾向があるという結論を得て、「善悪」という熟語を作ったように私には思える。
 人は善と悪を等しくもつように運命づけられているのではないだろうか。
 その主張に対しては、まれには善ばかり、悪ばかりという人もいるではないか、善悪どちらかが強いという位の人なら、いくらでもいるではないかと言われそうである。しかし、勝手な夢想だが、人類全体を平均してみれば、善と悪との力は等しくなるのではなかろうか。だからこそ、これまで地球全体が善か悪の一色に染まったことはないし、天国にも地獄にもなったことはないのだ。
 善の時代・悪の時代または善の国・悪の国というのもあるかもしれない。しかし、第一に、多くの人々が時代や国を構成するのだから、純粋な善悪はあり得ないし、第二に、時代時代や国々を平均してみれば、両者の力はやはり等しくなるのではなかろうか。そしてそれはこれまでと同じように、永久に変わらないような気がする。世界中を支配する永遠の天国も地獄もこの世に出現することはないだろう。従って、今の世の中も平均して見れば決して天国でも地獄でもないし、将来そういうものが現れると期待したり、それを前提としてものごとを考えたりするのにはかなり無理があるだろう。
 もう一つ夢想を述べることをお許し頂きたい。自然には善も悪もない。そこに生きる動植物にも善も悪もない。だが、あえて自然に人間の善悪の基準を当てはめて、自分を守るために自分の子どもを殺すような行為を悪、子どもを守るために自分を犠牲にするような行為を善、などと分けていくと、自然は善にも悪にも傾いていないという結果が出るのではないだろうか。また鳩は平和の象徴で、蛇は執念深くて、狐は狡賢いといった固定観念を捨てれば、特に「人格」の高い生き物も低い生き物もいないことが明らかになると思う。人も自然の一部である。いくら科学が進歩しようが、それは変わらない。そうである限り、他の生き物と同じように、善悪どちらかに傾くことは出来ないのではないか。
 では善を目指そうとする人たちの努力は無駄なのか。永久に善悪の対立が変わらないのなら、努力の意味がないではないか。いや、それは早まった結論だろう。そういう努力があるからこそ、善悪は均衡を保っていられるのである。決して完全な勝利を収められない戦いだが、戦い続けなければならず、その努力は大変貴重なのだ。私は天の配剤、神の摂理といったものを信じないが、善悪の均衡のため、善を目指す使命の人々と悪を目指す使命の人々が同数いるのでは、という思いにとらえられることもある。さらに想像をたくましくすれば、もし善の側の人が100人悪に転じるのなら、悪の側の人も100人善に転じるといったこともあるように思えてくる。
 さて、全体としては永遠に善にも悪にも傾くことがないとすれば、人類は特に天使のような存在でも悪魔のような存在でもないことになる。天使や悪魔のような個人はいるとしても。従って、人や社会や時代に対する過度の賛美・信頼・希望や批判・不信・絶望などといったものは排すべきだということになるだろう。また今さらだが、人や社会や時代をより良くしていこうという努力は永久に続けなければならないということになるだろう。

2000・8・12、10・12改稿


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