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聞く側の努力

荻野誠人

ある大学教授はみごとなハゲ頭なのだが、「ハゲてることは事実なので、ハゲと言われても気にならない」と言う。生徒であった私は、それを聞いて、これはなかなかまねできないな、と思ったものである。

ふつう、欠点と見なされることをはっきりと言われれば、傷つき、怒るものである。これは人間として当然の反応なのだろう。だが、それでは、相手に悪意などなく、うっかり心にもないことを言ってしまった場合や、善意で事実を指摘してくれた場合でも、相手に対して穏やかでない感情を抱くことになり、人間関係がまずくなってしまう。教授の場合、そんなことはないわけである。

もちろん、ものを言う側は、相手の心をむやみに傷つけないように注意する必要がある。たとえ事実であるからといって、悪意がないからといって、心ない言葉が許されるわけではない。 しかし、言う側にばかり努力を求めていてもいいのだろうか。相手の不用意な発言を聞くや否や逆上したり、それをとらえてとことん追い詰めたりするのは節度のある応対だろうか。このようなことは個人と個人の間から、国と国との間に至るまでしばしば見受けられる。そのおかげで、言う側は萎縮し、臆病になり、肝心のことが言えなくなってしまう。そもそも、どんなに注意しても、人間である以上完璧な話し方などできるわけがない。

ある中学か高校で、いじめ防止のための「憲章」のようなものを作ったそうだ。その一節に、ある言葉や行為を受けた側が「いじめ」だと判断したら、それはいじめである、というのがあった。この一節をすばらしいと思う人もいるかもしれないが、私はこれには危険な面があると思う。つまり、受ける側に絶対的な決定権が与えられているために、自分にとって不愉快なあらゆる言動を短絡的に「いじめ」と見なしてしまう危険性があると思うのである。いじめはなくさなければならないが、こういった考え方では「いじめ」られる側が一種の暴君になりはしないだろうか。

私は、たとえ不愉快なことを言われても、それが事実であれば受け入れ、相手に悪意のない失言であれば許せるように、聞く側も大人になるべきではないかと思っている。いやなことを言われてすぐ腹を立てるのではなく、そんな時、相手を理解しようとする余裕をもつべきではないかと思っている。口で言うほど簡単でないのは、自分でも経験しているので、分かっているが、少しでもそうなるように努力すべきではないだろうか。

よい人間関係はお互いが努力しなければ築くことはできない。この場合も、言う側と聞く側の双方が努力して、初めてよい人間関係ができあがっていくのではないだろうか。

(1990・9・15)


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