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景色の見え方

----『心の風景 第五集』に寄せて

向井俊博

 なだらかな山なみ、鳥のさえずり、にぎやかな商店街、都会のビル群。景色は誰が見ても変わらないと思いがちだが、どうもまるきり違うらしい。


 先日知人が退職し、年金生活に入った。途端に世の中の見え方が変わってしまったという。すべてが生き生きと見え、そして聞こえるのだそうだ。日頃、無意識のうちに会社のことが心底にあり、時間にも追われ、こういった足かせを引きずって見ていた景色だが、それが無くなったために見え方が違ってきたのだろうという。要するに、心のゆとりのあるなしで世の中の見え方が変わるぞと力説する。挙げ句の果てには、「おまえ、もっとゆとりを持て」「要は気持ちの持ちようだ」と甚だ難しいことを言われてしまった。

 あまり実感がわかないが、休日にのんびりした気持ちで同じ路をたどってみると、いつもと景色の見え方が違ってくることは確かだ。店先の燕の巣で雛がかえっているし、路傍のフェンスの下でねこじゃらしの穂が風にそよいでいるし、何やかやで不思議にも景色に生気が感じられてくる。

 知人がこうも言っていた。男はお勤めを終えてやっと世の中の見え方がまともになるが、女房にはややこしい勤めがないから、世の中はバラ色に見えているはずだ。だから女は明るくて、長生きするのだ。と、こんな理屈を女房にぶつけたら、何言ってんのよ、女は家事、育児、内職のパートと大変なのは男と同じよ、と逆襲されてしまったそうだ。

 それはさておき、景色の見え方をよくよく考えてみると、一人一人の目やカメラのレンズを通ってくるところまでは同じでも、人の場合はそれを心で感じ取るがゆえに、見る景色というものは十人十色となってこよう。みんなが同じ景色を見ているようで、決してそうではないのだ。

 一つの景色をばらばらに見ているとなると、何か救いがないように思ってしまうが、人間には実は、心の通いあいというものがある。心を通わせれば、「自分の」景色が「みんなの」景色になりうるのだ。そのよい例が芸術であろう。美術、音楽、どれも精魂込めて見つめた個人の景色が、心の通いあいを通してみんなの景色になってくる。芸術家の見た景色には程遠いかもしれないが、心を通わせることによりいささかなりとも近づけるのはせめてもの救いであろう。


 人は心の持ちようで見る景色が違ってくる。しかし一方、心を通わせることでそれをみんなの景色にして素晴らしいものを見ることが出来る。人間は一生の間に、こうして「自分の」景色、「みんなの」景色を沢山見ることで成長していくのではなかろうか。


 『心の風景』誌は、一人一人の心の風景に心を通わせることで、それをみんなの風景にしていくところに意義があるように思う。荻野君の発意と努力に改めて敬意を表するとともに、今後の発展を願ってやまない。

〔平成7年8月14日〕


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