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変わり者

小林直人

私はよく「変わり者」と言われる。金にならない奉仕や福祉の活動などに精を出し、頼まれるといやと言えないどころか、頼まれた以上のことを思わずやってしまう。将来は開発途上国で働こうかなどとも考えている。趣味も、ラグビー、柔道、エレクトーン、作詩作曲あたりまではいいのだが、茶道、マージャン、アジア文化研究、世界の文字研究・・・とくると相手の目つきが段々変になってくる。また、こうやって文章を書いていること自体、回りの人から「そんなことして楽しい?」とか「やっぱり変だよ、オマエ」などと変わり者よばわりされてしまう。

この変わり者であるということを「非」とするならば、私は真先に非難の対象となるであろう。また、これを「是」とするならば、私は人の上に立てるぐらいの変わり者ということになる。

私が現在まで、こうした変わり者でいられたのは、私を取り巻く環境が少なくとも変わり者に対して否定的でなかったためと思われる。

元来、私は他人と違っていたいという意識が強かった。「何かみんながやらないことをやってやろう。先駆者になろう」と思っていた。幼い頃から、私が進んで変わり者になっていく過程をずっと見てきた家族や中学までの友人は、それを一つの個性の成長として受け止めてくれていた。

だが、この過程を知らずにいきなり私の個性とぶつかった人々は、面食らい、私を否定し、排斥するものだということを最近知った。

高校へ入学して、回りを見回すと、知っている人は誰もいない。私は初対面の人たちに自分の個性をどう出していけばよいかと考えた。しかし、結局、ありのままにふるまうのが一番いい、と思った。

ところが、これがどうも具合が悪い。たとえば、決して見せびらかしたわけではないのだが、私がタイの魔よけの木彫りのペンを持ってきていることや、広東語の音楽のカセットテープをウォークマンで聞いていることや、電車の中の広告のハングル文字を一人でぶつぶつ読んでいることなどがいつの間にか知れ渡ってしまい、「あいつは頭がおかしい」などと露骨に軽蔑のまなざしを浴びるようになってしまったのだ。私はただアジアの文化に興味があるだけなのに。

夏の合宿で、中華街で買った人民服を着て外を出歩いたのは、今思えば致命的だった。私は目立とうなどとは少しも思っていなかった。人民服は涼しいし、動きやすいから着たまでなのである。だが、仲間は誰も近づこうとはしなくなり、一人は口もきいてくれなくなってしまった。そんなこんなで、現在私は学校ではかなり浮いた存在である。

ところで私の学校は東京にあるのだが、世間で時々耳にする「国際都市TOKYO」という言葉がある。これは東京が多種多様な文化のるつぼとなり、人の考え方もそれぞれの文化に対して柔軟で寛大だという意味に受け取っていた。その東京にある学校の生徒だから、私の個性に対しても柔軟で寛大だろう、と勝手な期待を抱いてもいたのである。これは私の大いなる失敗であった。浅はかな思い込みであった。

確かにちまたには、様々な国の様々な文化がいたるところで花を咲かせている。エスニック料理やアフリカの音楽のCDやイタリアのモード産業が生んだ服や家具など。日本人はすっかり国際人になったつもりである。しかし、これらの「花」は彼らがちょっと気取ってみたいときにつける装飾品の役割を果たしているにすぎない。どれだけの人がその文化を支える個性を受け入れているだろうか。ハンバーガーやコーラのようにすっかり日本人の生活に溶け込んだものもある。だが、そのことは日本人がアメリカ人のものの見方や考え方を理解し、身につけたことを決して意味しない。

一方、日本人の服装をよく見てみると、みんな判でおしたような格好をしている。マニュアルを真似たみたいで、着ている人の個性が感じられない。一見個性を追求しているようでも、結局回りに合わせたがっているのである。このことは服装だけではなく、生活全般や人生観などについてもいえるようだ。

すべてが表面的に軽く流される今。そんな中で個性という自分の源となるものまで回りと歩調を合わせて規格化していく人たち。もちろんそういった生き方がその人たちの「個性」であるというのなら、それを否定するつもりは毛頭ない。だが、少なくとも私は、自ら個性を否定するよりも、たとえ回りに迫害されても自分の個性を主張する方を選びたい。

他人に合わせようという意識は、他方では、個性を主張しようとする自分たちとは違った人たちに圧力をかけたり、排斥したりすることにもつながると思う。だから私のような人間は回りから変わり者扱いされるのである。私は変わり者と呼ばれること自体がいやなのではない。ただ、「その考え方はやめろ」とか「あいつは危険だ」などど人の個性を否定したりせずに、私の存在をあるがままに認めてほしいのだ。私は単に普通の人と違っているだけで、別に回りに迷惑をかけているわけではない。

考えてみれば、有名人の特異な個性は「才能」としてもてはやされているではないか。だが世の中には無名であるということだけで個性を途中でつぶされてしまう人がどれだけいるだろうか。どう考えても筋が通らない。一度迫害される者の立場に立って、これまで自分たちが他人の個性をどう扱ってきたかを振り返るべきではないだろうか。

(1991・6・16)


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