目次ホームページヘ  作者別作者別


カラオケでの四苦八苦

荻野誠人

 まさか歌うことになるとは思わなかった。
 夏の終わり頃のこと。居酒屋で昔の仲間5、6人と思い出話や近況に花を咲かせていた。居酒屋といっても、私はほとんど飲めないので、食べる方が中心である。
 連中とは、学生時代にある宗教で活動した仲である。私は当時熱心な信者で、一応リーダー役ではあったが、顰蹙を買う言動も多く、周囲に迷惑をかけた。おまけに社会人になったころ、その宗教をやめてしまった。だが、当時の仲間はそんなことは全然気にせずに20年以上たった今でも、OB会と称するこの集まりには欠かさず呼んでくれる。本当にありがたいことだ。ちなみに私はその場では最年長だった。
 会が終わりに近づいて、突然、次はカラオケに行こうかという声が出始めた。だが、私はカラオケというと、大昔仕事の関係で一度付き合わされたきりで、薄暗くて狭い部屋に大音響という悪い印象しか残っていない。それにそもそも歌に余り興味がないのである。もう退散しようかなあという気分に。途中で帰るのは、昔から私のよくやることだ。
 ところが、そこへ仲間の女性が飛び入りでやって来た。私とは少なくとも15年くらい会っていない。しかもその女性は私との再会をとても喜んでくれた。こうなると、まさかお先に失礼とは言えない。
 覚悟を決めて、むっとする空気の中を仲間の行きつけらしいカラオケボックスに向かった。入ったのは予想通りの部屋で少々憂鬱に。一応避難経路を確認する。仲間は慣れていると見えて、無造作に選曲して歌い始めた。普段から練習でもしているのか、こちらがあきれるほどうまい。そして当然のように私にも歌えと盛んに言ってくる。
 私はとまどいながら、分厚い選曲リストの本を手に取る。学生時代だったら、無愛想な顔をして、歌おうとはしなかっただろう。そういう人間だった。活動は一緒でも、趣味などでは少数派であることが多かった。
 だが、それももう遠い昔のことだった。カラオケに来た以上、せっかくの楽しい雰囲気を壊さないようにするのが長年の友人としての最低限の振る舞いというものだ。そう思って選曲にかかったが、歌手や曲の名前も記憶の彼方に霞んでいて、四苦八苦した。皆が合唱したり、タンバリンを叩いたり、野次を飛ばしたり、写真を撮ったり、大いに楽しそうにしているかたわらで、うつむいて本をあちこち探し続けた。
 やっと捜し当て、機械を操作してもらって歌う。歌なんて、もう何年も歌っていない。うまいわけがない。音程が合わず、声域が予想より狭くなっていて、声を出そうとしても苦しいだけだ。おまけに1番しか覚えておらず、2番の歌詞が流れる画面から目が離せないというちょっとみっともない歌い方に。
 でも、昔に比べれば、恥をかくこともそれほど苦痛ではなくなっていた。それに皆も私の美声など期待していないだろう。懐かしいアニメソングで仲間をびっくりさせたりして、何とか5曲。それなりに喜んでもらったようだ。「荻野さんが歌ったの、初めて見た」と感心したような顔で繰り返す仲間もいた。それはそうだ。私だって皆の前で歌うのは初めてだ。
 11時ごろカラオケボックスを出る。「ああ、楽しかった」と言って別れた仲間もいた。皆の幸せな気分に少しは貢献できたかな、けっこう自分も変わったなとまんざらでもない気分だった。それに下手でも何でも、声を出せばすっきりするし。
 だが、少々気疲れしたのも事実である。次回はやはりカラオケの前に失礼してしまうかもしれない。しかし、翌日からいざという時のためにユーチューブなどを使って新たな選曲を始めたのである。

2010・11・7

 


目次ホームページヘ  作者別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp