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環境と自分

荻野誠人

もう十数年も前のことになるだろうか。私はそれまで、エリート・コースとはちょっと違うが、それでも比較的恵まれた人生を歩んでいた。当時私は、ある信仰の場でそれ以前のひどかった性格を克服して、自分もなかなか人間ができてきたと思っていた。そのように思うこと自体がもう慢心なのかもしれないが、少なくとも自分では客観的な評価のつもりだった。実際、友人もずいぶんと増え、「変わったなあ」と言ってくれる人も少なくなかった。

だが、突然その恵まれた環境は失われてしまった。私は肩書を捨て、根なし草になってしまったのである。もっとも、このことは全くショックでなかったと言えばうそになるが、十分覚悟はしていたことだった。だが、予期しないはるかにショックなことがすぐに続いた。

私は暗く、気難しくなり、ことあるごとに他人に突っかかるようになった。弱い者いじめさえした。十年来の友人とも喧嘩別れしてしまった。しかも非はすべてこちらにある。そして、順調に人生を歩み、成功をおさめている人を見ると不機嫌になり、自分の境遇に不平不満をもらすようになった。皮肉屋になり、なげやりで悲観的なことばかり口にするようにもなった。すべて以前の自分が否定し、軽蔑していたことである。おまけに、細かいことがやたらに気になるようになり、しばしば深刻な不安にとりつかれるまでになった。立派な精神病だったのかもしれない。

私はひどくがっかりした。つくづく自分がいやになった。今まで築いてきたつもりの自分というものは一体何だったのだ----。それは結局恵まれた環境に支えられたものに過ぎなかったのではないか。恵まれた環境の中では誰もがいい人になれるのだ。

私は謙虚であることの大切さを痛感した。もちろんそんなことはすでに百も承知だったが、このときはまさに「思い知らされた」のである。自分の人格は本物だなどと軽々しく思うものではない。今の自分はあくまで今の環境あっての自分かもしれない。どんな環境に置かれても変わらない自分があってこそ、初めてそれを本物の自分と呼べるのである。

しばらくして、事情を知った友人がある心理学者を紹介してくれた。私はそこへ通って自分の弱さや病的な部分を克服しようと努力することになった。同時に自分自身でも何とか自分の言動を悪の方向から引き戻そうとした。そういったことがどの程度の効果をもたらしたのか、はっきりとは分からない。だが、幸いある程度の社会的地位を回復し、多少の収入を得られるようになったこともあって、二年くらいたったころには何とかどん底の精神状態だけは抜け出すことができた。

この体験から学んだことは多かった。一つはすでに述べたように、本物の人格とはどんな環境でも変わらないものであること。しかし、実際にはあらゆる環境を体験することなど不可能であるから、結局のところ自分がどれだけ本物であるかはよく分からない。従ってつねに謙虚な態度で学び続ける必要があるということ。

そして自分が変わったと思うときは、本当に自分の人格が変わったのか、環境が変わっただけなのかを見極めることが大切であると考えるようにもなった。そうすれば、慢心したり、自分の能力や適性についての判断を誤ったりすることをかなりの程度避けられると思うからだ。

では、この体験を通して私は変わったのであろうか。「あの試練を経験してよかった。おかげで自分はきたえられた」などと威勢のいいことを言いたいのは山々なのだが、残念ながら答えはノーである。心理療法のおかげで多少性格は変わったかもしれないが、それよりも社会的地位や収入といった環境が改善されたことが私を救ったのだと思っている。だから、もし再び同じような目にあえば、また醜態をさらすような気がするのである。

少し淋しい結論だと思われるだろう。しかし私は余り気にしていない。たぶんそれは事実なのだろうから、そのまま受け入れようと思っている。ただ、私はあの出来事以来、心理学の方法を実践するなどして、自分を変えようと多少の努力はしてきたつもりである。長い時が経ったにもかかわらず、その成果がどれだけあがっているか心もとないが、とにかく、醜態を演じたり、周囲に迷惑をかけたりすることが少しでもなくなるように、これまでの努力を今後とも続けていきたいと思っているのである。

(1990・3・11)


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