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Kさんの信仰

荻野誠人

私がまだある宗教の信者だったころ、招かれて別の宗教の集まりによく遊びにいっていた。その集まりの責任者Kさんは当時三十歳くらい。いかにも一生懸命修行中のお坊さんといった雰囲気の持ち主で(もちろん本物のお坊さんではない)、それでいてとぼけたところのある面白い人だった。強力なリーダーという感じの人ではなかったが、誠実な人柄で皆に信頼されていた。

Kさんとかなり親しくなったころ、私はかねてから用意しておいた意地の悪い質問を他の信者のいるところでしてみた。

「もしKさんの宗教以上の教えに出会ったらどうしますか。」

Kさんは、別に表情を変えるでもなく、ちょっと考えて、はっきり言った。

「そうしたら、その宗教に移ります。」

私は、さすがKさん。この人の信仰は本物だ、とうれしくなって、ますますKさんが好きになった。この質問にこんなにきっぱりと「今の宗教をやめる」と答えてくれた人は、私の宗教にはいなかった。たいてい「多分移らないだろう」と答えるか、「その時になってみないと分からない」などと言葉を濁すかだった。「そんな宗教、あるわけない」と相手にしてくれない人もいた。

さて私は今「この人の信仰は本物だ」と書いたが、どういう理由でそう思うのか、少し私の考えを言わせてもらいたい。(Kさん、もしまとはずれなことを書いたら、許してください。)

第一に、真剣に真理を求めているという点である。もし、義理や習慣や惰性で信仰しているだけなら、あのような答えは出てこなかっただろう。より自分を高めよう、より周囲に貢献できる自分になろうなどといった思いがあるからこそ、より優れた宗教なら移ってもかまわないという気持ちになるのだと思う。その姿勢はすばらしいというべきではないだろうか。

第二に、執着がないという点である。改宗は多くのものを失うことを意味する。それは慣れ親しんだふるさとを永久に見捨てるのに似ている。友人や団体内での地位やそれらにまつわる様々な特権も捨ててしまわなければならない。これはたいへんつらいことである。私の質問に「多分移らないだろう」と答えた人たちもそのつらさに堪えられないと思ったのかもしれない。「そんな宗教、あるわけない」と無視した人は、そんないやなことは考えたくもないと思ったのかもしれない。だが、別の宗教の方がより優れていると内心認めながら、人間関係などに執着してそれまでの宗教に居続けるという態度は果たして正しいのだろうか。Kさんにはそういう執着はなかったと思う。そのことは、金や物や体裁などにはこだわらない普段の様子からも十分うかがうことができた。だからこそ、他の信者の前であるにもかかわらず、きっぱりと今の宗教をやめると言えたのだ。

第三に、考え方が合理的である、という点をあげよう。世の中に宗教は無数にあるのだから、それらを全部知らなければ、自分の宗教が最高だと言うことはできないはずである。「これほどの感動を与えてくれる教えがほかにあるわけない」などと言ったところで、それは本人だけの思い込みかもしれず、どの宗教をのぞいてもそう言う人はいる。もちろん世界中の宗教を知ることなどできはしないから、ひょっとしたら自分の宗教以上のものがあるかもしれない、という思いを頭の片隅にとどめておくというあたりが現実的で合理的な態度だろうか。おそらくKさんもそういう考え方の持ち主だったのだろう。そうでないと、「そんな宗教、あるはずない」という視野の狭い、頭の硬い返答が出てくるのである。こういう人は、失礼ながら、教祖や幹部の教えや方針をうのみにしていて、自分の判断力をもっていないのではないだろうか。その反対にKさんは柔軟で、理屈の分かる人だった。自分の頭で考え、知識も豊富で、ときにはその穏やかな顔に似合わず、教義や活動を批判したりもしたものだった。

私は何もKさんの信仰が最高だなどというつもりはない。信仰にも様々なあり方があるのだろうし、また、あっていいのだろう。私はKさんの信仰は合理的だと書いたが、そんなものは信仰ではないと全面的に否定する人さえいるかもしれない。だが、しばしば身近で見てきた義理や惰性や執着で続けているような信仰や、権力や賞賛目当ての名ばかりの信仰や、周囲に迷惑をかけるだけの、常識を欠いた狂信などに比べれば、Kさんの信仰がはるかに優れていることは間違いない。

さて、私はもうかなり前から宗教とは縁がなくなって、Kさんの宗教にも出入りしなくなった。Kさん自身は今転勤して海外にいる。今でも同じ信仰を続けているそうだが、それはまだKさんがより優れた宗教に出会っていないからなのだろう。帰国したときは、ぜひまた派手に論戦などしたいものだと思っている。

(1991・3・11、1992・3・7 改稿)


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