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「情」の大切さ

荻野誠人

 ベストセラー『国家の品格』では、著者藤原正彦氏は論理よりも情緒が大切だと主張する。氏の情緒とは私なりに解釈すると、美に感動する心とでもいったところだろうか。美の中には、自然の美・芸術の美・心の美が入る。情緒はその人の総合力で、論理の出発点となり、正しい判断の基礎となるそうだ。著者は若いころは論理の信奉者だったのが、次第に限界を感じて今の考えに至ったのだと言う。
 実は私も、似たような経緯をたどって似たような結論に至っている。ただここでは「情緒」ではなく、「感動」「情熱」「感情」やそれらを包含するものとして「情(じょう)」という言葉を文脈に合う形で適宜使わせてもらいたい。
 「あの人は感情的だ」と言うと、これは褒め言葉ではない。私は以前感情というものをそのようなやや低級なものと見なしていた。理性や知性の方が後から現れたより高度なものだというわけだ。しかし、経験を通して、どうやら感情は理性や知性と同等の重要なものではないかと思うようになってきたのである。そして、その人の言動が長く他を利するためには、言動の出発点や根底に喜び、悲しみ、憐れみ、憎しみなどの感情や感動、情熱といった情が必要なのではないかと思うようになってきた。
 偉人として知られる人達の仕事の出発点が情である場合は多い。北里柴三郎は幼年時代、病気で弟達を失い、その悲しみや病気に対する憎しみがきっかけで医学の道を志したという。同様の理由で医師となった人は少なくない。シュリーマンは幼年時代に読んだギリシア神話に感動して、後に大規模な発掘を行なってトロイを発見し、その神話が事実であることを証明した。芸術に感動して、その後の人生が決まってしまう人も多い。聖パウロは復活後のイエスに出会って、一瞬でキリスト教に改宗する。その後の活躍は余りにも有名である。宗教者は先人の言動に感動し、救われて、一生を神や衆生のために捧げる。このように偉大な業績の出発点は決して理屈などではない。情なのだ。そのことは私達一般人のささやかな業績にも当てはまる。
 もっとも、情だけではだめである。例えば、冷戦時代「戦争反対」と熱狂して、ソ連を利するだけの反核運動に身を投じたり、かわいそう、残酷だという感情だけで日本の捕鯨や韓国の犬料理を非難したり、といった結果に陥ってしまう。こういうことがあるので、私は以前感情を低く見ていたのである。
 戦争に対する憎しみを人々の幸福に役立てるためには、広い視野や豊富な知識や冷静な判断力といったものがどうしても必要であろう。でなければ単なる復讐のような結果に終わってしまいかねない。感情をエンジンとすれば、ハンドル・アクセル・ブレーキの役割を果たす理性や知性がなければ完全ではないのである。
 一方、情抜きではどうなるだろうか。
 私は、「いいこと」をする運動や団体にかなり関わってきた。例えば、福祉・環境・教育・宗教などである。そこにはもちろん、立派な人も数多くいて、世の中に貢献していた。いかにも充実した日々を送っているという人達だった。しかし、どうも言動がおかしな人も少なくなかった。名誉・権力・金銭をめぐって争いも起こった。物心両面で深刻な実害を被る人も出た。もし心の底で、人の悩み苦しみを救おう、というような情熱が働いていれば、そんなことにはならなかっただろう。そういう情熱は昔はあったのかもしれないが、その時心を占めていたのは、欲望だったとしか思えない。
 また「いいこと」を義務感でやっている場合もある。これはそれほど悪いとは言えないだろう。義務感だけでも立派な仕事をする人はいる。しかし、やはり仕方ないからやっているという面もあるので、行き届かないことも出てくるし、創造性などもなかなか発揮されない。それに本人が面白くない、疲れる、長続きしない。
 上記の人々の中には、感動が出発点となっていても、いつの間にかそれが消え失せてしまった場合が多い。そのこと自体は責められないと思う。人間は忘れる、飽きる。どんな強烈な感動でもいつかは色あせる。すると、惰性に陥ったり、感動が欲望に取って代わられたりしてしまうのである。
 そういう場合はどうすればいいのだろうか。
 まず少なくとも自分がそういう感動も情熱もない危険な状態に陥っていることを知ることだろう。そのためには日頃から内省の習慣をつけておく。自分の状態を冷静に把握していれば、少なくともまっさかさまに転落することだけは避けられるだろう。意志や義務感の強い人は自分を監視しながら、何とかやっていくだろう。たとえ様々な欲望が頭をもたげてきても、それに完全に支配されなければいいのである。すべての欲望を超越している人など、めったにいるものではない。
 かつての感動や情熱を取り戻すには、やはり休息や気分転換が必要であろう。情という潤いがなくなって心が干からびてしまうのは、疲れが原因であることが多いからだ。また、俗に言う「元気をもらう」ことも効果がある。自然や芸術に触れるのはもちろんだが、情熱的に生きている人と接することもいい。その人の情熱がまさに乗り移ってくるのである。しかし、そういった試みが必ずしもうまくいくとは限らない。その場合は最初の自分に戻ることを諦めて、潔く身を引いてしまうことも立派な選択である。
 では、最後に、そもそも情の豊かな心、感動できる心を子供時代に養うにはどうすればいいのだろうか。これも感動を取り戻す場合と似たような結論になる。やはり従来から人々を感動させてきたものに触れさせるのが一番だろう。それは、『国家の品格』でも主張されているが、自然や芸術である。そして、それに追加したいのは人の情である。情の豊かな人に囲まれて育った子供は情の豊かな人になる。
 心を一から養う場合、本人の努力よりも教育が担っている部分の方が大きいだろうが、物心ついてから、自分から自然や芸術に親しむのも決して無駄ではないと思う。
 感動できる人作り、自分作り、つまり感動できる心を作ることは大切である。そういう心の持ち主が充実した人生を送り、世の中を支えることになる。

2006・3・7


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