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人格の低下に対して

荻野誠人

 「昔の人の方が立派だった」と老人が言うと、若者は「ふん」と嘲笑するものである。私は最近老人の肩をもちたくなっている。
 と言うのも、昨今の技術の進歩や生活水準の向上による世の中の急速な変化が人格を低下させていると思われてならないからである。その変化が体力や五官を衰えさせたことは広く認められているが、同じように心も衰えさせたと考えられる。その実例を身近なところからいくつかあげてみたい。
 少し前まではテレビも電話も家に一台ずつが普通だった。家族はその一台を皆で使うしかなく、そこに思いやりや譲り合いや我慢といったものが生まれた。しかし、今やテレビも電話も一人一台の時代を迎えている。好きな時に好きなだけ使えるようになり、実に便利で快適である。だが、思いやりなどの心を育てる機会は失われてしまった。
 家庭料理が母親の手料理を意味したのは30年ぐらい前までだろうか。当時の母親は家族の好みや健康を考えながら料理を作ることで心が練れただろうし、家族もそれを感じ取って心の交流が生まれただろう。今やインスタント食品が氾濫し、スーパーやコンビニで出来合いの、味も悪くない健康にも配慮した惣菜が手軽に買える。おかげで女性は面倒な料理から解放され、社会進出する一つのきっかけを得た。それは歓迎すべきことなのだろうが、その変化が家族のきずなを強めた、子供に注ぐ愛情を豊かにしたという話は一向に聞こえてこない。
 次は新手のビジネスによって親がさらに面倒な育児から解放される日が来るのではないかと思っている。かつて貴人は自分では育児をしなかったのだから、あり得ない話ではない。
 今では自動販売機やスーパーなどのおかげで日本語が全く分からない外国人でも十分に買い物が出来る。昔は店の人と言葉を交わしながら買い物をしたものだが、そういった面倒な接触をせずに済むので快適であるとも言える。人件費が安くなるという無視出来ない効果もある。しかし、その陰で人間関係を築く技術を学ぶ機会は一つ失われたのである。
 電車の中で携帯電話を使わないように車掌がお願いするのは、一つには心臓のペースメーカーを狂わせる恐れがあるからだ。そこには他人の健康を思いやる心が芽生えるきっかけがある。ところがある日、電磁波に影響されない心臓ペースメーカーを開発するという記事を読んだ。遅かれ早かれ実用化されるだろう。すると思いやりは不要となる。
 同じことは駅のエスカレーターなどの設置についても言える。老人や障害者のために設置するべきなのは言うまでもない。だが、そうなれば階段で弱者を助ける機会もなくなるのである。
 人格というものは困難や不便さに堪え、それを乗り越えることや、困った人に手をさしのべることによって形成されると思う。世の中が豊かで便利になり、誰もが簡単に自分の欲望を満たせるようになって困った人がどこにもいなくなると、どうしても高い人格は育たなくなる。冒頭の老人の肩をもちたくなる私なりの理由である。
 このような今の世の中に対する批判的な見方に対して、高い人格は不必要だから育たなくなったのであり、不必要なものが消えるのは自然な変化で、何も心配することはないという意見もあるだろう。確かにその通りであろう。それに、私も世の中の変化を否定的にのみとらえようとしているわけではない。子供にテレビを与えることや食事をインスタント食品ばかりで済ませることには賛成出来ないが、老人や障害者などが何不自由なく暮らせる世の中をつくるのは当然のことである。
 しかし、どのような時代でも、最低限その時代が必要とする人格を育てる必要はあるはずだ。いかに進歩した現代の日本でも、人柄などどうでもいいという声は全く聞こえてこない。逆に心の荒廃が叫ばれているということは、時代に必要な人格が育てられていない証拠である。聖人君子のような高い人格はもう育てようがないし、不必要であるけれども、現代を気持ちよく暮らせるようにする程度の人格は必要なのだ。
 それでは私達は、急速に変わっていき、人格を低下させる世の中に対してどういう姿勢で臨めばいいのか。それにはまずその変化に気付き、その変化が私達の心にどういう影響をもたらすかを考えることであろう。次々に新しいものが導入される世の中であるから、ぼんやりしていたら、知らない間にどんどん心が干からびていく恐れもある。心の荒廃が叫ばれる理由の一つは、心がその急激な変化についていけないことではないか。特に失われるものについては忘れるべきではないと思う。新しいものが導入されると、よい面ばかり、快適な点ばかりが注目されるが、多くの場合、大なり小なり失われるものがあるものだ。それが人格を低下させることが少なくない。そして、次の段階は、そういった変化にどう対処していくかを考えることだろう。
 例えば、駅にエスカレーターが設置された。まずそれに気がつかないのではどうしようもないが、気がついても「ああ、便利になったな」で終わりにするのではなくて、失われたものが何かないか考える。すると、弱者に親切にして、心を通わせる機会が一つなくなったのではないかと思えてくる。しかし、車椅子の人が利用出来ないエスカレーターであれば、困る人が全くいなくなったわけでもないことが分かる。それに電車の中や横断歩道など弱者に親切にする場面はまだまだいくらでもあることを再認識する。そしてその再認識を行動につなげていくのである。
 また、新しいものごとは人格を育てる機会を減らすことが多いとは言ったが、実は新たな機会を提供することもある。電話が私達の生活に入ってきた当初は、おそらくかなりの混乱があっただろうが、今では大体電話のマナーというものは確立している。例えば電話での話し方やかける時間帯に配慮することなどである。そういうものを身につけることが心を育てることにもなる。
 最近のまだマナーが確立していないものごとの例としては、インターネットの電子掲示板をあげよう。掲示板の一部は罵詈雑言の嵐である。書き込んだ人は自分の心の醜さに自己嫌悪に陥らないのかと不思議でならないほどだ。犯罪行為は論外だが、失礼な言動の中でも特に認めがたいのが、人を名指しで口汚く非難するのに自分は匿名で連絡先さえ伏せるやり方である。
 掲示板のような公の場で他人を名指しで批判する人は、やはり自分の名前や連絡先も公表するのが礼儀だと思う。個人情報が悪用されるから伏せているのだというなら、名指しの批判を自粛するか、もっと礼儀をわきまえたものにするべきだろう。そういう態度を貫いていくことがその人の責任感や勇気や誠実さといったものを育てていくのではないか。そう考えると、掲示板は心を育てる新たな場であるように見えてくる。
 現代の日本が経験している快適さばかりを求める進歩に対しては、様々な批判がある。進歩に背を向けるようなことを実践している人達も一部いる。しかし、快適さの追求が大多数の人間の強烈な欲望であり、これまでの歴史がその欲望の実現であったことを考えれば、今後も同じような進歩が続くだろう。そしてその進歩とともに人格の低下は避けられないだろう。しかし、その時代時代で必要な人格というものはあり、精一杯それを育てる努力はしなければならないはずである。  

                        2003・9・25/ 2004・1・9改稿  


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