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慈愛の国の物語

荻野誠人

あるところに慈愛の国という小さな国があった。

その国の人たちは大昔からみんなたいへん立派で、思いやりにあふれていた。しかもその人たちは自分の心をどこまでも高めていこうとしていたので、日に日にますますすばらしい心の持ち主になっていった。

人々の思いやりは人にだけではなく、あらゆる生き物にも向けられていた。

この国では闘牛やスポーツとしての狩りや毛皮のコートのようなものは、はるかな昔に姿を消していた。生け花や競馬や動物の見世物などがなくなったのも、かなり古い時代のことだった。

一時科学が急に発達して、公害の起こったことがあった。人々は何の罪もない生き物を苦しめたことをたいへん恥じ、自分たちの生活を犠牲にしてたくさんのお金を出して、たちまち公害をなくしてしまった。

つい最近、人々は生き物を医学の実験に使うことをやめた。人間の病気のつけを何の関係もない生き物にまわすのはいかにも理不尽だというのだった。そのため医学の進歩が多少遅れて、人々の苦しみが長引いても、やむをえないと思ったのだった。人々はふだんの健康管理や予防医学にいっそう力を入れるようになった。

やがて人々は肉や魚を食べることに疑問を感じるようになった。動物たちはつかまえられるときや殺されるときに恐怖や痛みを感じるのだ。自分たちに動物をそんな目にあわせる権利はない。こうして人々はきっぱりと肉食をやめ、菜食に切りかえた。植物なら脳がないから、恐怖も痛みも感じないだろうというわけだった。

だが、間もなく人々は野菜や果物を食べることにも疑いを抱くようになった。植物だって懸命に生きようとしているではないか。子孫を増やそうと必死になっているではないか。脳がないから、というのは単に脳をもっている側の勝手な言い分に過ぎないのではないか----。人々の迷いと苦しみは段々ひどくなっていった。ある日とうとうそれは限界を越えた。

翌日、慈愛の国の人たちは、一人残らず自らの命を絶ってしまった。


付記 この話から私の主張を読み取ろうとしてもむだである。この話は、あるときひらめいて、私の意志とは無関係にあれよあれよという間にでき上がってしまったからである。いつも明確な主張を盛り込んだ文章しか書くまいと思っている私自身、こんな様々な解釈を許すものができあがってしまって、とまどっている。この鬼子のような作品をどうするか、しばらく迷っていたが、かなり重要な問題を含んでいるようにも思うので、発表することにした。読者の思索のきっかけになれば幸いである。私も自分自身の考えを確認するために、これをもとにあれこれと考えてみようと思う。

(1991・6・2)


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