目次ホームページヘ  作者別作者別


自分は知り尽くせない

荻野誠人

 自分を知る−−−ソクラテスや孫子を引き合いに出すまでもなく、これはきわめて大切なことと言われている。自分を知れば、長所を伸ばし、短所を改めることも容易になるし、自分が何に向いているかも分かるようになるというわけだ。
 ただ、人は自分を知り尽くすことは出来ないと私は思っている。いや、一生をかけても知ることが出来るのは、自分のほんの一部でしかないと思っている。
 私たちが自分を知るきっかけは、ある状況で自分がどう反応したかということだろう。からかわれて、すぐにかっとなれば、自分は短気だと思う。競争すべき場面で、相手に譲ってしまうなら、自分は欲がないと思う。誰とでもすぐに仲良くなれるなら、自分は社交的だと思う。似たような経験を重ねるにつれて、自分はこういう人間なんだという思いが強くなっていく。
 私たちは中高年になると、だいたい自分のイメージが固定してくる。「オレはこういう人間で、今さら変わりようがないよ」と言う人もけっこういる。人生相談などで「もうあの年では変化を期待することは出来ないでしょう」などと回答しているのを見聞きすることも多い。
 その原因の一つは、本当に変化や成長が止まったことなのだろう。確かに若いころと比べると、肉体も精神も成長しないし、柔軟性も失われてくる。
 もう一つの原因は、その人の生活が安定して、習慣化してくることではないだろうか。中年になると、自分の能力に幻想を抱かなくなって無理な挑戦などはしなくなり、安定志向になっていく。また、家族を養わなければならなくなり、生活の激変は避けようとする。その結果、毎日が職場と家庭の往復のようになる人も珍しくない。つまり、自分を知るきっかけとなる、その人の体験する状況が似たようなものばかりになっていくのである。
 ということは、たとえ中年になっても、状況さえ変われば、その人は新しい一面を見せる可能性があることになる。私自身は、それまでになかった状況にぶつかって、思いもよらぬ反応をした自分に、「オレはこんなに非常識で馬鹿だったのか」と愕然としたことも、「オレはこんなに大人の判断が出来るようになっていたのか」と大いに自己満足したこともけっこう多く、今では自分に対する余り硬直したイメージをもたないようにしている。
 考えてみれば、ある人が出会ってきた状況というものは、世の中に無限にある状況のほんの一部に過ぎない。その人が突然外国へ行ったり、大病をわずらったり、大金持ちになったりしたら、どんな反応をするかは分からないのである。自分のイメージはそれまで経験してきたごくわずかな状況に対する反応だけから出来上がっているのである。
 仮に自分はもう変化も成長もしなくなっているとしても、本人はその自分さえ知り尽くしているわけではないのだ。その可能性の多くが眠ったままなのだ。
 自分はこういう人間だ、とかたくなに思っていると、本当に自分に対する感受性が衰えてしまうのではないか。いくら中年になって生活が習慣化してきたといっても、たまには新たな状況にぶつかることもあるだろう。そんな時に今までにない反応をしている自分を見逃してしまうだろう。
 見逃したからどうだというのだ、という反論があるかもしれない。もう自分を変えられなくなっている年齢なのだから、気づいたところでどうしようもないではないかというわけである。しかし、自分を変えられなくても、状況の方を何とかすることは出来る。新たな反応が否定的なものなら、そういう状況に陥らないように工夫することぐらいは出来るだろうし、肯定的なものなら、自分のいい面をどんどん出すために、そういう状況を自分から作り出すことなども出来るはずだ。自分に対する感受性が生き生きしていれば、自分をさらに高めることは可能なのである。
 私たちは自分を知り尽くすことは永久に出来ない。それどころか、自分のほんの一部を知っただけで死んでいかねばならない。自分はいわば眠った可能性のかたまりなのだ。それなのに「自分はこんなもんだ」「変わりようがない」などと思い込むのは、自ら自分の可能性を狭くしているようなものではないか。

(2005・10・20)


目次ホームページヘ  作者別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp