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自分を失う自分探し

荻野誠人

 「自分探し」。すっかり市民権を得たようですが、私はどうもこの言葉に違和感を感じるのです。
 もともとの意味は、色々な所へ行ったり、色々な集団に入ったりして、自分に合ったものや自分のやりたいことを探すという行為なのでしょう。ですから確かに「探し」ではあるのです。そして、その行為自体は自然なものでしょう。
 ところが、それが「自分探し」と短縮されてしまうと、誤解が生じるのではないでしょうか。つまり、どこかにある自分を探すという意味に解釈されるのではないかと思うのです。私などは「自分探し」と聞くと、「山のあなたの空遠く 『幸(さいはひ)』住むと人のいふ・・・」という詩を連想してしまいます。「幸」と同じようにどこかにある「自分」を探し求めてさまようというわけです。
 実際には自分がどこかにあるなどということはありません。自分は自分の中にあるか、あるいは自分がこれから作っていくかのどちらかでしょう。少なくとも自分の外にはありません。しかし、「自分探し」という言葉を念頭においている限り、目は自分の外にしか向かないように思います。その結果、自分を見失う、生き方が分からなくなるということも起こり得るのではないでしょうか。
 そんな言葉の違いくらい大した問題じゃないだろうと思う向きもあるかもしれません。でも、言葉の力は強く、たとえ別の意味をもった言葉の省略であっても、一旦「自分探し」という形になってしまえば、人の発想を束縛してしまいます。
 私見の具体例を示しているかのような一節を新聞に見つけました。
 「自分探し疲れ」という言葉がある。「個性的でなければ生きている意味がない」という思い込みが、若者を追い詰めているという指摘だ。(『読売新聞』06・4・15)
 これは「自分探し」という言葉の呪縛で判断の基準がずれてしまったのでしょう。「疲れ」てしまうのは、やはり目を外にばかり向けているからではないでしょうか。個性的とは、おそらく他人と違っているということでしょうが、日本人はまさに星の数以上もいるわけですから、あらゆる人と違った生き方などそう簡単に見つかるはずがありません。散々探して見つけても、どれももう大勢の人がやっている。そこでせっかく見つけたものを捨ててまた探す。それを繰り返してヘトヘトになってしまうのでしょう。
 他人と違うかどうか、という点に気を取られている間は自分に合った生き方を探し出すことは難しいでしょう。あくまで自分を判断の基準にして、自分が何をしたいのか、何に向いているのか、ということを発見するのが本来の自分探しでしょう。その結果見つけたものがたとえ平凡であっても、それが最も自分を成長させ、幸福にするものでしょう。いくら他人と違っていても、自分に合わなければ意味はありません。個性的か否かということは、それほど大事な点ではないのです。
 自分に目を向けない「自分探し」はかえって自分を見失うことになるでしょう。

06・5・12


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