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「いざ」と「ふだん」

荻野誠人

 「友情っていざという時にならないと本物かどうか分からないんだよね。ぎりぎりの時じゃないと人間の本当の姿って分からないんだよね。」
 いきなり男子中学生が私に近づきながら、張りのある声で言ってきた。いやに自信ありげだ。親か教師にそう言われたのだろうか。私はその勢いに少したじろいだ。何と答えようか迷った。
 「いや、そんな風に、決めなくても、いいんだよ。・・・普段だって、大事なんだよ」
 私は歯切れ悪くそう答えた。その男子は別に気に留める様子もなく、私から離れて行った。なぜ急にあんなことを言ってきたのか、今でもよく分からない。

 私も以前は同じように考えていた。困った時、追い詰められた時、とっさの時・・・そういう時に人の本性が現れる。よく言われることである。ある有名な心理学者も似たようなことを言っている。パニック映画などではそういう心の動きがよく描かれる。火災で超高層ビルに閉じ込められて、それまで紳士だった人が豹変し、他人を踏みつけにして自分だけ助かろうとする。一方、普段はおとなしかった人が自分の命を犠牲にして他人を助ける英雄になる。だから普段の振る舞いでは人は分からない。友情も愛情も試練を経ていないものは信用出来ない。そう思っていた。

 しかし、本当にそうなのだろうか。その考え方は、間違いとまでは言わないが、少なくとも極端なのではないかと今では思う。
 まず、その考えでは、「いざ」という時の行動や人柄が本物で、普段の行動や人柄は偽物だと見なしている。どうしてそのように考えるのだろうか。
 例えば、大震災の時や冬山で遭難中の人々の食事と普段の食事とを比べてみよう。前者の食事は即死活問題である。だから、その時の食べ物をめぐる振る舞いは、利己的利他的に関わらず、周囲に大きな影響を与える。弱い者に食べ物を譲るような人は聖者のように崇められるだろうし、なりふり構わず独り占めにするような人は人でなしと蔑まれるだろう。そういう話を間接的に見聞きした人も似たように感ずるはずだ。そしてそれは人々の印象に深く残る。一方、普段の食事で他人に分けてやっても、独り占めにしても、たいした話題にもならないだろう。人々が、命に関わる前者の行為を「本物」と見なすのも無理はない。
 しかし、だからといって、普段の食事の時の行為は「偽物」と断ずることが出来るのかどうか。普段の時に他人に食べ物を譲るのは、無価値なのかというと、決してそんなことはない。これもよい行為である。ただ、「いざ」という時のいかにも英雄的な行為と比べれば霞んでしまうというだけで、価値が失われるわけではない。
 それなのに、中学生の口にした考え方に従うと、「いざ」という時利己的に振る舞った人は、たとえ普段どんなにいいことをしていても、卑劣漢になってしまう。「いざ」という時の利己主義者こそその人の正体であって、普段のその人は仮面ということになるのである。これは公平な人の見方だろうか。利己的行為は批判されて当然だけれども、普段の行為も認めるべきではないのだろうか。私に言わせれば、利己主義者はその人の数多くある面の一つであって、「本物の」自分などではない。
 次に、疑い始めればきりがないということもあげられる。その人の人格や行為、また人間関係などがどこまで「本物」なのかは結局誰にも、本人にも分からないのである。
 ある友情が試練を乗り越えた。そこで、その友情は本物だと思われた。だが、それ以上の試練に見舞われた時、その友情は壊れてしまった。すると、その友情は偽物だったということになるのだろうか。また、運良く一生試練らしいものにあわない友情もあるだろう。では、その友情は本物だったのか、偽物だったのか。いや、もうそんな問い掛け自体に意味があるのかどうか・・・。
 最後に、気になることは、ああいう言い方をした中学生の考えは、不信を秘めた否定的な人間観を基礎にしているのではないかということだ。つまり、「普段善人であってもいつ悪人になるか分からない」という考え方が基調で、「普段悪人であってもいつ善人になるか分からない」という考え方は希薄だということだ。これは一つの人生観で、かなりの人がもっているのかもしれないが、公平な人間のとらえ方ではないだろう。
 人の心や人間関係が決して堅固なものではないことを知っているのはいいと思う。しかし、否定的な考え方が強過ぎれば、「こいつの友情なんかあてにならない」などと他人に対する冷笑的な態度を生む可能性もないとはいえない。少なくとも私にはそういう傾向があった。あの中学生が私に話しかけてきたのは、年長者の意見を鵜呑みにしただけではないかと思うのだが、ひょっとすると人を疑いたくなるようなことを経験したのかもしれない。

 人の心も人間関係も絶え間なく揺れ動く。はかないものであるとも言える。もし、そのはかないものを評価しようというのなら、一瞬一瞬を公平にとらえるべきではないか。「本物」という言葉をあえて使うなら、「いざ」という時の自分も本物だが、普段の自分も本物なのではないか。後者を軽んじるなら、人を理解することは出来ないだろう。

(2000・1・9)


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