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一瞬の友、永遠の友

荻野誠人

 人生に親友なんて、いるのか? ネット上でこう書いた人がいた。その理由は、かつて友人だった人たちの中で、今もつきあっている人が一人もいないことだった。仲たがいしたわけでもないのに。文章には淋しさがにじんでいる。この人にとっては、交流がずっと続く人が親友なのだろう。
  私には長いつきあいの友人が何人もいる。けれども、音信不通になってしまった人の方がはるかに多い。私の方から連絡しなくなったことも、もちろんある。特にネットでの交流ははかない。顔も声もしぐさも分からないから、なかなか友情が育たないのだろうか。途切れてしまった人間関係のことを思うと、確かに少なくとも明るい気持ちにはなれない。
  だが、もともと人と人はいつまでもいっしょにいることはできないものだ。就職・結婚・転勤・病気・多忙、そして死。様々な原因が立ち現れては、友人関係を断ち切っていく。仏教ではそのことを会者定離というようだ。努力して交流を絶やさないことはできるけれども、友人になりたての頃の密な関係を保つことはまず無理だ。自然にしていれば次第に疎遠になるのが普通なのである。それは嘆かわしいことではない。
  交流がずっと続くのは大したものだとは思うが、大事なのは、ある瞬間だけでも、人と関わったことではないだろうか。たとえ短い期間でも、互いの人生のために何かをしたのなら、それで十分ではないだろうか。
  それに、考えてみれば、長年交流が続いているからといって、それが必ずしもすばらしい友情とは限らないだろう。「腐れ縁」というような言葉もある。単に偶然で、ガラス細工のような友情が続いている場合もあろう。
  また、それまでの友人に会えなくなる一方では、新たな環境で新しい友人との出会いもいくらでもある。新たな出会いの方が以前のよりも価値がないことはないだろう。
  絶えてしまった交流を悲しんでいる人は、今目の前にいる友人との仲を充実させることに目を向けたり、新しい交流に期待したりしたら、どうだろうか。
  どんな人を親友と呼ぶかはその人の自由だが、私の基準では短期間でも充実した交流ができたのなら、その相手は十分親友と呼ぶ資格のある人だ。それなら、冒頭の文章を書いた人にも親友は大勢いることになるだろう。


2009・2・5


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