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磯野家の男性陣

荻野誠人

 日曜にテレビの『サザエさん』をよく見ている。と言っても、熱狂的なファンなどではなく、ほかの番組よりは好きだという程度である。
 登場人物の磯野家の面々は皆善人だけれども平凡な人達だ。10分足らずで終わる話の中でも多いのが、家族の一人ががらにもないことをやろうとして失敗し、結局いつも通りの自分に戻るというものである。例えばカツオが勉強を一所懸命やり出すとか、サザエが思慮深くなろうとするといった話である。そこにはありのままの自分が一番いいのだという主張が読み取れるように思う。確かに毎日幸せに暮らしているのだから、特に背伸びする必要などないのだ。もっとも、こういう話もほのぼのとしていいのだが、似たようなのがしょっちゅう出てくるのには少々閉口していた。
 先日の話はそういうのとは違っていて、面白かった。波平、マスオ、カツオの男性陣が美人達にのぼせるのである。特にカツオは子供だけに行動が大胆だ。美人の家にわざとボールを放り込んで取りに行って、仲良くなってしまう。それに対して波平とマスオはせいぜい見とれたり、ちょっと話しかけたりする程度である。白バイのお巡りさんがわざわざ自動車を追いかけて行って、運転手が美人であるのを確かめて満足するといったおまけまで付いていた。
 美人にうつつを抜かしても、男性陣は特にへまをしでかすわけでもなかった。美人から嫌われたりもせず、磯野家の女性陣からちょっとたしなめられたくらいで、オチらしいオチもなく、「え、これで終わり?」という感じで終わってしまった。ワサビのきかない作品と言われるかもしれない。
 だが、その終わり方は当然なのではないか。登場人物が自分らしくないことをやろうとするからこそ失敗し、それが話のオチになる。だが、美人にのぼせるのは、ありのままの自分の表れなのである。だからひどい目にあうこともなく、オチもなかったのである。
 磯野家の男性陣はどこにでもいる人達である。だから美人に心を奪われるのは、普通の人の自然な心の動きだということになる。全く同感である。そしてそれをそのまま描いたところがいい。男性陣に何かへまをさせ、「がらにもなく奥さん以外の女性に目を向けるからそうなるんだ」「人間は顔じゃない」などといったありきたりの教訓を盛り込んだりしなかったところがいい。
 あんな作品を夜6時半に放送しても「女性差別だ」「教育上よくない」などという抗議の声は上がらないのだろうか。それなら日本人のおおらかさを表すということでこれも嬉しい。
 アニメの作者が上記のようなことを意識していたかどうかは分からない。だが、私にはそう読み取れる。以来『サザエさん』を少し見直すようになった。

 2003・4・30


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