目次ホームページヘ  作者・テーマ別作者別


犬と日陰

荻野誠人

 真夏の太陽がアスファルトの狭い坂道を照りつけてくる午後。道路沿いの家からは何の物音も聞こえてこない。人も車も通らない。
 坂を上っていくと、車一台分の小さなガレージが見えてきた。今、車はなく、鎖につながれた犬がコンクリートの床の隅の方にだらしなく寝そべっている。中型の茶色の雑種犬はハアハアと舌を出して苦しげに息をしている。近づくと、私の方をちらと見た。そばに水の入ったバケツが置いてある。
  こんな暑い日にこんな所に・・・。バケツの水なんか何の役にも立たないぞ。
 大丈夫なのかと心配しながらも、私は通りすぎた。この犬の飼い主は直ぐそばの古くて小さなアパートの二階に一人で住んでいる。40歳代の小柄な男性で、付き合いは全くないが、たまに犬の相手をしている様子を見ると、けっこう可愛がっているようだ。たが昼間はいつも不在だから、ガレージがどうなるのか思いも寄らないのだろう。
 ニ、三日後、もう少し遅い時間に同じ坂道を上った。すると、驚いたことに、コンクリートの床に日向の部分が広がり、隅の日陰に寝そべっている犬をじわじわと追い詰めているのだった。ガレージの屋根を見ると、トタンか何かの粗末な覆いが一部外れてしまっている。
 日の沈むまでまだ三時間ぐらいはある。それまでに犬が強烈な西日にさらされるのは間違いない。今でさえハアハア言っているのに。
 いてもたってもいられない気がした。あれこれ考えながら、家に帰ると、庭の水道からじょうろに水を入れて、周囲を見回しながらガレージに向かった。幸いこの日も通行人はいない。 ガレージの前に来て、迷った。道とガレージは、私の腰あたりまでの鍵つきの金網で仕切られていて、それを乗り越えるのはためらわれた。近所の人にでも見られたら、何と思われるか分かったものではない。普段近所付き合いをしていないのがこんなところで響いてくる。じょうろから水をガレージの床にまいてみせれば、喜んで近寄ってくるかと思ったら、何の反応もない。「おい」と小さな声で呼んでも寝そべってハアハア言っているだけ。
 私は引き返して、今度はバケツに水を入れて、出直した。そして、思い切って金網の下から水を犬の所まで届けとばかりにぶちまけた。幸い水は犬のそばまで広がった。犬はハアハアをやめ、不思議そうな顔をして立ち上がった。意外と元気そうな感じがしたので、拍子抜けだった。私は情けない気持ちになってとっとと家に帰った。ほんの一瞬温度を下げてやっただけで、まさに焼け石に水だ。曇れ、曇れ、と思ったが、太陽はそんな気持ちはくんでくれなかった。翌日も同じことをした。
 次の日、ガレージの屋根を覆えばいいと気付いた。すだれでもあればちょうど良かったのだが、そんなものはない。私は深くは考えずに黒くて大きな傘を持ち出した。この日も道には誰の姿も見えない。私はガレージの前で青い空に向けてコウモリを開いてみた。屋根の穴を覆うのには十分かもしれなかったが、またも金網に邪魔されて届かない。放り投げてもこんなものがうまく乗るとは思えないし、第一、床に落ちてそのままになれば、飼い主に怪しまれてしまう。私はイライラして引き返し、またバケツの水でお茶を濁した。
 こんな馬鹿なことをしている間も犬は拷問を受けているんだ。そうだ、飼い主に知らせればいいんだ、と気付いたのは翌日だった。すぐに手紙を書き上げた。そしてアパートのポストに入れようと思ったが、躊躇した。アパートの二階は近所から丸見えなのだ。手紙を入れているところを見られて、飼い主に通報されて・・・。それがどうしたというのだ。・・・いや、ひょっとしたら、あのおとなしそうな飼い主は、実はタチの悪い人で、「生意気だ」とばかりに・・・。動物を可愛がる人に悪い人はいないさ。・・・でも、確か007の映画か何かに猫を可愛がっているマフィアのボスが出てきたような・・・。結局この日は行動に移れなかった。 翌日は曇った。そして風が強かった。私はようやく手紙をガレージの金網の目に差し込む方法を思いついた。私は「昼間、犬が暑そうで、かわいそうです。せめて屋根を修理して日陰をつくってください。どうかお願いします」と書いた便箋を折り畳んでガレージに行った。犬は相変わらず肩で息をしている。すばやく差し込もうとしたら、金網の目が小さくて入らない。慌ててもう一回折って差し込んで、風で飛ばされないように結び目を作ろうとしたら、便箋がうまく曲がらない。力任せに紙を引っ張り、冷や汗までかいて何とかそれらしいものを作って早々に退散した。この時までとうとう一人の通行人にも会わなかったのは幸運だった。
 翌々日、ガレージの屋根の穴はすだれのようなものでふさがれていた。
 その夜、私は「ありがとうございます。これで安心してそばを通れます」と書いた紙を差し込んだ。かなり迷ったのだが、飼い主の暮らしぶりを考えると「こんな所で飼わないでください」とまでは書けなかった。


1999・12・8


目次ホームページヘ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp