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命の大切さを教えるために

荻野誠人

 また年少者が殺人事件を引き起こした。しかも今度は小学生の女子が加害者である。衝撃は大きい。
 こういう事件が起こるたびに教育関係者は「命を大切にする教育を徹底します」と言う。もちろん打てる限りの手は打たなければならない。しかし、恐らく成果を上げるのは難しいだろう。実際、成果が上がっていないから、似たような事件が続くのではないか。では、どうして成果が上がらないのだろうか。
 それは私たちの文明が、命の大切さを感じさせない方向へ突っ走っているからだ。
 命の大切さは、命に直接ふれて実感しなければ分からない。しかし、科学技術に支えられた現代文明はそうさせようとはしない。
 文明とは、人と自然の直接の結びつきを遮断するものではないか。例えば、原始時代、人は裸足で歩いていた。原始人は地面に直接接していたわけである。ところが、現在の日本ではそういう機会はほとんどない。人は靴を履くだけではなく、電車や自動車に乗る。それどころか空中を移動することさえある。地面の方も都会では舗装されていないところを探すのが一苦労というありさまになっている。
 都会に生まれた子供たちは、冷暖房完備の、害虫を駆除した部屋に守られ、山や森や海や川で泥だらけ傷だらけになって遊ぶ代わりに、安全で美しい遊園地や大音響とけばけばしいイルミネーションのゲームセンターに行く。動植物に直接ふれる機会も乏しく、動植物が懸命に生きようとすることも死ぬことも、自分が他の生き物のおかげで生きていることも分からなくなっている。ということは、自分も他の生き物の仲間であることを学べず、結局自分の命も実感できないということだ。人は他者に接することで、自分を自覚すると言われているのだから。
 おまけに最近は人と人との直接のつながりも弱くなっている。核家族化・少子化が進んだ頃から、その傾向は指摘されていたが、インターネットや携帯電話の登場で拍車がかかった。それはそれで人と交流するためにも大変便利なものだが、しかし、直接相手に接することに取って代わるほどのものではないだろう。人間関係の基礎は相手に直接接することだ。人間全体を理解するためにはそれがどうしても必要である。子供や若者を観察したり、批評や記事を読んだりすると、その時間が削られていっているのではないかという気になる。相手を直接感じる時間が減れば、相手の「命」の実感も弱くなり、結局自分の「命」の実感も希薄になる。
 現代文明を全面的に否定するつもりはない。人と自然を隔てると言っても、それは人を凶暴な自然から守るという目的があったわけだ。そして文明の進歩の結果、人々が快適な生活を手に入れたことは確かである。しかし、命の大切さを実感しづらい社会になったとも言えるだろう。
 そのような状態で教育関係者だけが努力してもたかが知れているのである。成果を上げようとするのなら、社会全体で生活のあり方を見直していかなければならない。とにかく人も含めた生き物に「直接」ふれる機会をできるだけ多く作っていくことである。それを邪魔するものは取り除く必要がある。
 そして、そもそも教育する側の大人自身が命の大切さを十分実感していないのではないだろうか。それならまず大人が自分自身を教育し直すことから始めなければならない。口だけで命は大切だと言っても、子供の心には響かないのである。
 しかし、生活の見直しは世の中の大きな流れと真っ向からぶつかることになるかもしれない。「直接」ふれる機会を増やすということは、何でも「間接」にしてしまう現代文明を否定することになるからだ。
 たとえば子供時代のインターネットや携帯電話やコンピューターゲームへの過度な依存は改めて、直接自然や人に接する時間を十分確保するべきだということになるが、それは日本経済を引っ張る花形産業に悪影響を与えることになる。
 つまり、命の大切さを実感させるためには、どうしても経済の繁栄をいくらか犠牲にしなければならないのである。当然国民も失業も含めた様々な不利益を被ることになる。だが、そんなことまで認められるのだろうか。
 また、生き物に直接ふれさせるためには、自然の中へ連れ出さねばならない。当然ある程度の危険が伴うのは避けられない。いくら安全管理をしても、怪我をしたり、まれには亡くなったりする子供が出るだろう。そもそも完全に安全にしてしまったような「自然」に子供を連れ出しても意味がないのだから。だが、人命が極めて尊重されるようになった現代の日本でそのようなことが認められるのだろうか。
 しかし、命を実感させようとするなら、受け入れるしかないだろう。痛みを覚悟しなければならないが、それは現代文明をここまで発達させてしまった代償なのである。

2004・6・30


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