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生き物の死を通して

荻野誠人

 T

 新聞によると、学校で「死の教育」が行われ始めているらしい。
 人は死を知ることによって、命の大切さを知る。しかし、核家族化や医療施設の充実などで死を身近に感じることが少なくなっている。近年青少年の凶悪犯罪が増えているのも、それが一因だという。そこで学校で積極的に死について教えたり、皆で考えたりする授業が行われているのだそうだ。
 いい試みだと思う。そのもとになる考え方にも賛成だ。
 しかし、記事を読むと、そのほとんどが戦争や家族の死についての話を聞く、手記を読むという活動である。これではおそらく観念的な理解に留まってしまうだろう。学校という制約の中での授業なので、これは仕方がない。中には老人ホームの訪問というのもあった。失礼な言い方だが、こちらの方が死を実感する可能性があるだろうとは思う。何ごとも実体験に勝るものはない。と言っても、まさか臨終を「見学」するわけにはいかない。

 そこで、ここで少し別種の提案をしたい。
 自分で生き物の命を絶って、食べる。それを通して、死も生も実感させる。
 これは私独自の考えというのではない。すでに似たようなことを実践している人もいる。
 一番いいのは魚釣りだろうか。釣るのも料理するのも子供に出来るだけやらせればいいが、見せるだけでもいい。一生懸命逃げようとする魚の命を絶って、その場で食べる。その時、大人がちょっと話をして、魚も生きたいのに、その命を奪わなければ生きていけない自分に気づかせるわけだ。その話は骨身に沁みるのではないか。他の生き物の命の貴さを実感することも出来るだろう。感謝の気持ちも生まれるかもしれない。せっかくの釣りが深刻なものになってしまいそうだが、これは遊びの釣りではない。ただし、私たちは罪深い存在だという結論は出すことはないと思う。これは生きる為には必要な行為で、善悪と結びつけることはない。
 これは必ずしも学校でやる活動でなくてもいい。学校だと、どうしても活動が強制的になる。たとえ見ているだけでも、生きている魚の料理など残酷でいやだという子供もいるだろう。だから家族のような小回りの利く集団が、子供がそういうことを受け入れられる性格や年齢かどうかを判断した上でやった方がいいだろう。
 釣りの弱点は、残酷だと言われそうなことに加えて、それほど多くの子供には体験させられないことである。釣りを教えられる大人はそれほど多くはないだろうし、費用もかかる。場所も限られている。日本中の子供が皆釣りに出かけたら、太公望たちは居場所がなくなってしまうだろう。
 だとしたら、野菜の収穫も有力な選択肢である。これなら小学校低学年の子供でも参加出来る。野菜は収穫される時「抵抗」しないので、魚ほど命とその大切さを実感させられないかもしれないが、そこは大人が、植物も動物と同じ命をもっていて、同じように一生懸命生きようとしているのだと教えればいい。種まきから始められれば、より生命を実感出来る。細かいことだが、野菜はキュウリやナスのような鋏で実をとるものよりも、ダイコンやニンジンのような全体を収穫するものがいいだろう。いかにもその野菜の命をもらう感じがすると思うが、どうだろうか。
 屠殺場の見学もよさそうだ。私達は普段当たり前のように大量の肉を食べているが、それも屠殺に携わる人がいればこそである。もっとも、気分が悪くなる人も出てしまうらしいから、余り小さな子供には向かないようだ。
 野菜の収穫などは、いわゆる「自然教室」で広く行われていると思う。自然の中で楽しく健康的に過ごすのも一つだが、生と死を実感させるもう一つの「自然教室」もあっていいのではないだろうか。自分で生き物の命を絶ち、それを食べるという行為からは、忘れがたいものを学べると思うがどうだろうか。

 U

 少し脱線するが、生き物の命に関する私の経験を書いておきたい。
 確か小学校三年か四年の頃だった。私は残酷な子供だった。虫眼鏡でアリを焼き殺したり、アリの巣にお湯を流し込んだり、ミミズや毛虫を針で突き刺したりして喜んでいた。
 その頃はまだ家の近くに広い田んぼがあって、格好の遊び場になっていた。ある時私は一人でバケツ一杯のオタマジャクシを家に持ち帰った。そしてバケツを庭に据えると、オタマジャクシを手ですくい上げ、片っ端から針で突いていった。薄い皮膚を通して透けて見える渦巻状の腸がはみ出した。死に物狂いで振られていた尾の動きが次第に緩慢になっていった。そのあとオタマジャクシをどうしたのか覚えていない。たぶんドブに流してしまったのだろう。
 その夜のことである。田んぼから無数のカエルの鳴き声が噴水のように聞こえてきた。その夜に限って気になって、なかなか眠れない。段々恐ろしくなっていった。僕に仕返しをしようしているんだ。我慢出来なくなった私は階段を下りて、まだ起きていた両親に昼の行為を白状して、カエルが自分に復讐しようとしていると助けを求めた。母が、お前が悪いことをしたと思っているから、そう聞こえるんだ。もうしないとカエルに約束すれば、それでいいんだと言ってくれた。その後の記憶がないが、たぶん安心して二階に上がって眠ってしまったのだろう。それ以後オタマジャクシを針で突き刺すようなことは二度とやらなかった。
 こんな残酷な子供だった私が今では動物愛護団体の会員である。地面のアリを踏まないように歩いている。葉っぱをむしるのも嫌だ。動物虐待など様々な虐待のニュースを見聞きするとぞっとする。変われば変わるものだ。人柄が変わるといっても、意志の力で制御したり、理性で判断して正しい方を選んだり出来るようになったといったいわば人柄の表層の部分の変化ではなくて、もっと底の方から変わってしまったようなのだ。
 カエルの一件のあとすぐに人柄が変わったかどうかはよく分からないし、他にも理由はあるのかもしれない。しかし、あの一件は間違いなく私の変化の一因をなしていると感じられる。
 私の場合は生き物の命をおもちゃにしたのだし、恐怖で「改心」したのだから、決して人様の見本となるようなものではない。ただ、命を奪うことが強烈な体験になり得ることや、それがきっかけで命を大切にするようになっていったということは、釣りや野菜の収穫も大人の指導次第では同じような結果をもたらすのではないかと思わせるのである。

 
              T 2002・4・27 U 2002・7・10


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