目次ホームページヘ  作者・テーマ別作者別

「いい人」から「いいこと」へ

荻野誠人

 いい人になろう−−−こういう目標を一度でももったことのある人は少なくないだろう。思いやりのある人、誠実な人、人格の高い人といった目標もこの「いい人」の中に入れていい。いい人が増えれば、世の中も住みやすくなるのだから、けっこうな目標である。こういう目標をもっている人を周囲は尊敬するだろう。子供が「思いやりのある人になりたい」などと言えば、親や教師は喜ぶだろう。私自身もそういう目標を掲げて真面目に努力した時期もあった。

  しかし、実はこの一見非のうちどころのない目標には問題があるのだ。

  まず、達成が難しいのである。目標を掲げるのはたやすいのだが、心はそう簡単には向上しない。特に、冷たい人が温かい人になるとか、嫉妬の塊みたいな人が嫉妬しない人になるなどということはほとんど不可能ではないか。しかも、ほどほどのいい人という目標は掲げにくく、どうしても厳しい目標になりがちだ。例えば誠実な人とは24時間誠実であるはずで、時々うそをつく誠実な人というのは考えられない。つまり完全にいい人にならなければ目標を達成したことにはならないのだ。これはかなり高度な目標である。従ってそこへ到達するのは難しく、挫折感や劣等感に悩むことにもなる。私自身も、少しばかり行動して、自分は変わったかなと思ったらメッキがはげる、ということの繰り返しで、心のどこかに自己嫌悪を抱えていた時期がずいぶんと長かったようだ。

  また「いい人になる」という目標には、自分に意識が向き過ぎるという弊害もある。いい人というのは本来、他人に対していい人のはずなのだが、知らず知らずのうちに自分を高めることに執着するようになってしまう。成果が上がっている時は傲慢に、上がっていない時は卑屈になりかねない。とにかく他人が見えなくなってしまう。私などは他人に親切にして、「どうだ、オレはこんなに優しい温かい人間なんだ」と自分を納得させるという情けない傾向なきにしもあらずだった。本末転倒もいいところである。

  念のために言っておくと、いい人、という目標はもってはいけないというつもりはない。難しいとは思うが、それに挑戦して達成してしまえる人もいるだろうから、そういう人はその目標に挑戦すればいいと思う。ただ、私はどうもうまくいかなかった。そこで考えを少し切り換えたのである。

  私の考えは、「いい人になろう」を「いいことをしよう」という目標に切り換えることである。後者も易しくはないだろうが、前者に比べれば簡単である。冷たい心を温かいものにするのは一筋縄ではいかないが、温かい行いをするのはそれよりは容易だろう。例えば特に温かい心の持ち主でなくても、義務感から電車で席を譲ることは出来るのである。また、嫉妬心は消せなくても、嫉妬の相手に親切にすることは不可能ではない。それは多くの人が実行しているだろう。心は時間をかけてもなかなか向上しないし限界もあろうが、「いいこと」は直ぐに出来るし、機会もいくらでもある。こつこつと積み上げていくことも出来る。充実感や達成感が違うのである。また、「いいこと」はあくまで他人に向けた行動だから、意識が他人に向けられている。従って、自分への執着に陥る危険がより少ない。そして、最も肝腎なことは「いいこと」が「いい人」に劣らぬ目標だということだ。なぜなら、いいことが沢山行われるようになれば、やはり世の中は住みやすくなるのだから。

  さて、次にこの提案に対して予想される批判を取り上げて考えてみよう。簡単に言い負かされるようでは発表する価値がないというものだ。

 まず、「いい人」と「いいこと」は、単に言葉を取り替えただけだ、特別な違いはない、いい人になろうとする人だっていいことをしようとしている、という声が上がるかもしれない。確かに「いい人」という目標をもちながら何もしないということはあり得ない。しかし、言葉の力を無視するべきではない。私たちは言葉で考えるのだから、どうしてもそれに引きずられて考えや行動も影響されてしまうのである。話題と全く関係のない例をあげるなら、日本語と英語の両方が話せる人は、日本語を使っている時と英語を使っている時とでは考え方や発想が違うのだそうだ。こういった言葉の強い影響力を証明する例は幾らでもある。「いい人」と「いいこと」を比べれば、前者を常に思っていればより内向的になり、後者はより外向的になる傾向がある。内向外向そのものに価値の差はないが、本来他人にどう関わるかという目標を掲げているのに、自分に興味が向いてしまうのはまずいだろう。

  いいことをするのだって、いい人になるのに劣らず難しいのだ、目標を切り換えても実行に移せるのか、という反論もあるだろう。確かに、自分の命をかけなければならないようなことなら、どんなにいいことでも普通の人はまず出来ない。だが、小さないいことを一つするのは、いい人になるのよりはるかに簡単である。温かい言葉をかけたり、ゴミを拾ったり、生き物を大切にしたり、少々募金や献血をしたり、といったことだ。機会も無数にある。いい人、という目標が容易には達成できないのに対し、いいこと、の方は実行すれば、確実に積み重なっていく。それをゆっくりでもいいから一生続けていけばいいのである。次第に難しいことに挑戦していくのもいいだろう。別にいい人にならなくてもいい。周りからは「いい人」と呼ばれるようになるかもしれないが、そういうことは意識する必要はない。意識すべきは「いいこと」なのだから。

 この提案は安易な妥協ではないかという疑問も出るかもしれない。私としてはなかなか成果の見えない無理な目標よりは成果の上がるより易しい目標を、と考えたのだが、つらいからまあこの辺にしておこうなどという安易な妥協を生む可能性がないとはいえない。だから、この提案は一人一人が判断して決めてくれればいい。心底安易だと感じる人は「いいこと」という目標が合っていないのだから、別のをもてばいいと思う。

  「いいことをしよう」という目標が完全なものだと言うつもりはない。あくまで、「いい人になろう」よりは取っつきやすい、ということである。いいことをしようという意識も過剰なら弊害をもたらすだろう。例えば鵜の目鷹の目でいいことをしようと待ち構えているなどという状態は、悪いとまでは言えないとしても、結局自分中心で他人が十分見えていないだろうから、かえって人に迷惑をかける恐れもある。例えば、親切の押し売りや甘やかしになってしまうといったことである。

  理想は無意識にいいことが出来るようになることだが、そこまで行くと悟りの境地だ。普通の人には達成不能で、それを目指そうとするとまたも無用の力みや苦しみが生じてしまい、せっかく「いい人」から「いいこと」へ切り換えた意味がなくなってしまう。無理に無意識になろうとしても逆効果である。「いいことをする」という目標は、ほどほどに意識していればいいだろう。そうして実践を続けていくうちにそれが次第に自分の血肉となって、意識しなくてもいいことが出来るようになり、理想の状態に近づいて行くのではないか。

  さて、考えを切り換えた私自身はどうなったかというと、少しおおげさに言えば、重荷を下ろしたような感じになった。私は若い頃はもっと立派になれると思い込んでいたので、いたずらにあがいて劣等感や挫折感を味わっていたのだが、「いい人」は私にはまさに荷が重かったのだ。今ではそういったものに苦しむことも減り、以前よりは自然体で行動できるようになった。傍目には大して変わらないように見えるだろうが、私にとっては考えを変えてよかったのである。

                                                 1999・2・12/9・18改稿